我々は北海道根室支庁管内中標津町における先史文化を究明すべく昭和38年から同町遺跡の調査を継続的に行っています。 今迄、計根別、当幌地区の遺跡の調査を行ってきていますが、しばらくは当地区の調査を徹底的に行っていき、その後、次第に同町管内の他の遺跡の調査を行っていくつもりであります。従って今年の調査と昭和38年、39年の調査の様子と比較検討する為にここに簡単に紹介します。
標津川の支流の当幌川の北側一帯にある。同地区の遺跡では、編年的位置としては比較的時代の新しい遺跡の典型である。即ち、オホーツク文化期の土器一個体文が出土し、又、続縄文期のものと思われる土器及び石器の出土が見られ、さらに擦文文化期の住居址及び土器もみられる。
これらの事を考えると、この地区に残された遺跡には少なくとも3つの文化期の人々が住んでいたと考えられる。
標津川とその支流のマス川及びケネカ川の合流点付近に位置する。(中標津町字計根別46線北9号)同地区の遺跡の編年的位置は広範囲に及んでいて、縄文前−中−晩−オホーツク期にまたがっているものと思われる。
発掘を行ったのは2号、9号2個の竪穴で、2号の方では住居址を掘り出した。遺物はほとんど5層、6層より出土し、両層の差異はほぼみられない。
本遺跡はケネカ川と標津川の合流より500m程ケネカ川を逆上った所に存ずる。川のU字型に曲がりくねった突出部にある。あたりはズーッと一様な高さの台地でそのチャシの所は左右に谷が30m程入り込んでいる。チャシの根もとにはPointより深さ1m〜2mの溝が掘り込んである。右(南)はPointより5〜6mの深さで、左(北)の谷は六〜八mの深さがある。8月1〜2日本遺跡を測量した。Pointはチャシコツ上中央に定めた。1日目はポイントより−1m、−2mの等高線を測定し、及びチャシ根元付近のサクを測量した。2日目は−3m、−8mの等高線を記入した。その後川の輪郭を測定した。4日目は午後から、前の2日間で測量できなかった−八mラインの一部を記入し、この遺跡での作業を終わった。なお遺物はこの現場では採集できなかった。
本遺跡は桜井チャシコツの前の川(ケネカ川)を横切り、標津川とケネカ川の合流点を標津川に沿って500m程上流にむかったところにある。台地の奥行きは30m程ある。川からは100〜200m程隔てているらしいが、そこからは直接見えなかったのではっきりしたことは分からない。なお現地点は牛の通る道がある事などから牧草地の一部と思われる。
台地の北側は急斜面が存在し、馬車などの通ったらしい切りくずし道路が2ケ所みられた。北西から西一帯に渡っては沼が横たわっている。南から東にかけては緩斜面が続いていて、特に南側には松が散在していた。竪穴は9個ありその中でも番号1〜4は他より抜きんでて深く、比較的新しい時期とみられる。台地の中央には竪穴はみられなかった。なお3号竪穴のすぐ近くの切りくずしより土器片を採集した。
この竪穴は3層から擦文式とオホーツク式の融合式土器が1個体文出土した。即ち器形は深バチで擦文式、色調はオホーツク式、文様は刻文、貼付文でそれぞれ擦文式、オホーツク式の特徴を持つ。5層、6層からは前北式の一種であるオコツ式土器が出土している。5層からは外から内へ突く突りゅう文を有する同一個体の土器数片が出土している。6層からは突りゅう文を有する土器は出土しなかった。6層の下からは北筒式土器片が1片出土している。これらの土器は少ない。 次に9号出土の土器をいくつかに分類してみる。9号は第1類を擦文・オホーツク融合形。第2類にオコツ式。第3類を前北式(オコツ式を除く)。第4類を北筒式とする。
3層から刻文を有する擦文式の土器片が出土している。5層からも刻文が施してある土器片が出土している。9号からも出土しているオコツ式土器が3層・5層・6層にわたり出土している。5層・6層からは外へ突りゅう文の有する土器が割合多数出土している。9号の突りゅう文が外から内へ突かれているのに対して、2号のものは対称的に全て内から外へ突かれている。6層からは北筒式の土器が数片出土している。
Masu2号5区6層 Masu9号4区5層 Masu2号8区6層No66 Masu2号5区6層 Masu2号5区6層No69 Masu2号5区6層No70 Masu2号5区6層No71 Masu2号5区6層No72 Masu9号1区6層No31 Masu9号?区?層No7