コロポックル 第4集

昭和38年度遠征 中標津町遺跡調査報告書
1963.12 札南郷土研究部

目次

遺跡の所在地

はじめに

昨年、釧路T業高校の関谷博より中標津町字当幌に、先住民族の住居址があるということを聞き、本クラブの大沼が夏期休暇を利用して、中標津町へ赴き、遺跡の所在を確かめた。又、冬季休暇に再び当町を訪れた時、字計根別より、道路工事中に遺物が出土した事を聞き、ただちに計根別へ行き関係者から話を聞いたところ、相当数の遺物があるとの事であった。又、町の関係者の方では、早急に調査したいと云う事であった。この事を一応クラブに報告しておいたのだが、本年度のクラブの野外活動として、中標津町遠征の予備調査をする事に決定したので、大沼が事前に連絡をとり、町へ赴き、最終的な計画を立てた。

以上のようにして、本年度の予備調査が実現したのである。が、幸い町教委の御協と戴き調査がスムーズに行った事は本クラブ員の深く感謝する所である。

調査日程

本遺跡の予備調査は、昭和38年8月7日から11日まであった。(9日を除く)

調査中は霧がかかった程度で、コンディシォンはまずまずであった。

調査参加者

遠征責任者
札幌南高校教諭 堀本学先生、同 西野先生
調査責任者
札南高郷土研究部 伊藤建雄,大沼忠春,柳館克夫
調査参加者
札南高郷土研究部員 畑宏明,藤居美樹男,松岡啓一,名本クニ子,荒木幸也,三枝忠司,菅原啓一,花渕健一,広瀬雅明,熊谷浩子,斉藤英美子,斉藤美智子,新保節子,高波真弓,山県道子
釧路工業高校 関谷 博
当幌小中学校教諭並びに生徒若干名
計根別中学校 社会科クラブ 考古班員若干名

遺跡付近の地形 -当幌・計根別- 28号竪穴平面図 1号竪穴平面図

当幌地区の遺跡

この遺跡は、当幌川北岸にある幅100m位の河岸段丘にある。段丘は川面から約5m位の高さである。住居跡の在る場所はほとんど傾斜がない。竪穴は33個あるが、そのうち5個が段丘と、川面の中間の傾斜地にあるが、ここにはヤチボーズが群生しており、調査が難しく、正確な数は出にくい。段丘面の端に近い所には10m前後の丘がある。周囲は平地でそこだけが隆起している。この丘の北西方向に住居址が密集している。住居址群のまわりには白樺の林になっている。住居址のある所は現在は草地になっている。状態を観察すると、比較的時代の新しい遺跡の典型の様である。

計根別地区の遺跡

この地区は、ケネカ川と標津川の合流点付近とそこから東へ1.7q離れたマス川と標津川の合流点付近に住居址群がある。

ケネカ川のところは、川面より約8m位の高さの平地にある。平地の端は川の蛇行に沿って、入りくんでいる。崖の下は一帯に湿地となって居り、住居址群のすぐ下には泉が湧いている。住居址は標津川に沿って在り、その数は98である。又ここには、ケネカ川の方に小規模なチャシがある。これは二つの沢の間に溝を掘ってつないだもので、沢と沢の間は巾1m、深さ1m20p位の溝が掘られている。ここからは川の見晴らしが大変良い。

マス川付近のは竪穴の数約100個出川のすぐそばにある。この南東方向1・2qには盛塚と呼ばれている墳墓遺跡らしきものも存在する。

この付近の遺跡については土地の研究家佐川氏の知識によるところが多い。

当幌1号竪穴より出土したもの

総括

ここには遺物包含層が二層有り、上層からは薄手縄文土器と石鏃、それに骨片が出土した。下層からは貼付文土器と上層より出土した土器と同系のものが出土した。時代的には前記のものの方が古いとされているが、ここでは層位が上になっている。北大大場博士の談によると前記の時代の遺跡を後代に乱されたものと思われる。下層の下から配石遺構が発見された。これはおそらく墓と思われるが、今後の調査によって明らかにされると思う。

土器

薄手縄文土器

口縁部
同部
底部

オホーツク式土器

沈線文土器

当幌二十八号竪穴より出土したもの

総括

この遺跡は小高い丘のゆるやかな斜面に有り、遺物包含層は地表から60p位の所に有り、わずか縄文式土器とオホーツク式土器が2種類出土した。

土器

薄手縄文土器

縄文晩期と思われる土器で、口縁部と底部が出土している。器形は深鉢で平底である。推定では高さが28p、口径が21cm、底径が9cmと思われる。口唇は軽い山形をなし、太めの縄文が施されている。出土している土器には突起が1個しかないが、傾斜から推定して四隅に有るものと思われる。同部から口縁に向かって外反している。又。突起の両側に1.3cmの間隔で縦に3cmの縄文が施されている。口縁部かさ同部全体に細い線縄文が縦に施されている。器壁の厚さは口縁が6mm、同部が7mm、底が8mmである。底部は外側にそっている。色は茶褐色で、胎土には砂礫を含み硬い。内側に黒い炭化物が付着している。

オホーツク式土器

オホーツク文化器の土器で、底部から口縁部までかろうじてつらなる土器で、器形は典型的なオホーツク式土器て、推定口径が20cm、底形8.5cm、高さが30cmの壺形である。口縁は外側に張り出していて横位に二本の波形で細い貼付文がある。口頸部には焼いた後にあけた穴が一個ある。同部には上から順に細い貼付文が二本組で直線のものと波形で一本のものとが交互に四段につけられている。これらの下は無文である。器壁の厚さは平均5mm、口縁は9mm、底は1mmである。色は灰褐色で一部黒褐色を呈している。胎土はもろい。

計根別遺跡より出土したもの

計根別24号竪穴より出土したもの

土器

縄文土器
沈線文土器

ブルドーザーによって崩壊した所より出土したもの

土器,縄文土器

沈線文土器

これには地文が平行縄文のものと斜行縄文のものの二つある。

マス川の竪穴より出土したもの

採集資料総括

当幌の遺跡では1号竪穴(今回の調査で疑問を持たれる点が出てきたが一応便宜上、竪穴と記す)より縄文晩期とオホーツク文化期の土器が出土し、又その下部から直径10p大程度の自然石を33個現代の舟形に並べた配石遺構が発見された。28号竪穴においては、明らかに黒土層が灰色土層によって二分されており、上層からはほとんど遺物は発見されず、下層の上部からオホーツク文化期の土器1個体分が出土し、最下位からは縄文晩期と思われる土器、及び石器が出土している。これら台地よりの1号と川よりの28号の中間に大沼が試掘した16号竪穴がある。そこからは表土直下の黒土層より、擦文文化期の土器及び石器、擦文・オホーツク融合型式土器等が品都度し、又その下の第2黒土層中より、縄文式土器が出土した。これらの事により考えると、当幌川の河岸段丘上に残された遺跡には少なくとも三つの文化期の人々が住んでいたと考えられる。なお28号第二黒土層下部より出土した縄文晩期と思われる土器は、その縄文の施け方の点においてマス川付近の台地上存在する遺跡より採集した土器に極めてよく似ている。又、1号竪穴より出土した底面に縄文のある土器もやはりマス川付近で採集した土器に極めてよく似ている。この点だけより考えるのは早いと思うが、仮説としてマス川付近の縄文晩期と思われる遺跡と当幌に存在する縄文晩期の遺跡は何かしら関係があった様にも思われる。又計根別の標津川とマス川の合流点近くの遺跡においては、縄文晩期と思われる土器と石器並びに墳墓副葬品と思われる首飾り(うでか足かもしれないが一応首飾りにしておく)等と共に人骨が発見されている。ここから採集された縄文晩期の土器についてであるが、2系統に分類されるのではないかと思われる。というのは、その模様の著しく異なったものがあるからである。一つは単純な斜行縄文や羽縄文を施したもので、他の一つは、斜行縄文や、横位の細い縄線文の上に蛇行した沈線文が縦に施されているものである。これが明らかに異質的なものであれば、この遺跡には同時的ではないにせよ、二つの異なる文化を持った人がが住んでいた事になる。なお、この墳墓の副葬品と思われる首かざりなどと人骨は我々の調査の後に地元の中学生が、工事の為の砂が採取されている際出土したものを採集して、本クラブへ送ってきたものである。それで、ただちに北大・大場博士に鑑定を依頼したところ、「装飾品は貝製で副葬された当時は赤色に着色されていたもののようである。」との事であり、「人骨は女子のものか、男子のものであれば年少者のものであろう。」との事でした。なおこの人骨は頭骨の破片ではあったが、眼窩の付近ではなかったので、民族を決定する事は出来ないそうである。現在さの人骨は北大・大場博士の所に有る。又、この地区では厚手の縄文土器が発見されており、この遺跡の年代は縄文中期頃まで逆上るのではないかとも思われる。

当幌1 当幌1-2 当幌1-3 当幌1-4 当幌28 計根別24-1 計根別24-2 計根別24-3 計根別24-4 計根別24-5 計根別24-6


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