旧斜里山道の沿革
@旧斜里山道(=シャリ越え) (現釧路市〜中標津町計根別〜斜里町)
・釧路と斜里の連絡のため、さらに蝦夷地御用掛であった松平忠明の通行があったため、1801(享和元)年に白糠在住の屯田である八王子千人同心の原半左衛門等によって開削された。
・行程:釧路〜船〜標茶〜虹別〜ホンケネカ〜ワッカオイ(清里町)〜斜里(下線部が開削した部分)
(※ 1801(享和元)年の福井芳麿通行、同年の磯谷則吉通行、1807(文化4)年の津軽藩の北方警備隊が通行という以外ほとんど記録がない)
A旧斜里山道(=シャリ越え、=札鶴越え) (現標津町〜中標津町〜斜里町)
・アイヌの重要な交通路であった踏み分け道を改修して、1810(文化7)年に標津から斜里までが開削された。
・道中の止宿所は2ヶ所(シャリ側は現在清里町の水源地であるワッカオイ、カムイミノウシピラ、シベツ側は中標津町内を流れるポン俣落川と標津川の合流地点付近のチワイワタラ)で、その行程は3〜4日であった。
・山道の記録が出てくるのはこの時期が一番多い(※松浦武四郎、松本十郎、ヘント=ライマン、M=S=ディ、他多数)。
・明治14年に通行した松本十郎による山道の記録の中で、標津〜チライワタラ間の様子を「狐狸之所居所豺狼之嘯き筆舌に尽くしがたきの道也」としており、かなり寂しい道だったことがわかる。しかしケネカブト付近(場所は明記していないが、ウコフトルかカンチウシのことと思われる)からの広大な平原については、「松浦翁語りし所是なるべし」と景色の見事さを強調する部分もある
・この山道は11〜5月までは雪のため通行は禁止されていた(ワッカオイからチライワッタラ付近迄は吹雪の名所)ので、アイヌは冬期間の通行にはおよそ3日間にして斜里に達するシベツ越えを利用していた。
・また、旧斜里山道は道が悪い上に遠かったため、松浦武四郎、松本十郎が新道開削の意見書を提出している。
B新斜里山道(=シベツ越え=忠類越え) (標津忠類〜斜里)
・その後、1885(明治18)年にシベツ越えを開通させ、同年留辺斯に駅逓所を置くことにより、これまでのシャリ越えであった旧斜里山道は廃止となる。
※この新山道は、開削当初は刈り分け道路というほどの道であり、通行する者も月に僅か5〜10人程と少なかったが、明治29年頃になると1日に2〜3人は駅逓に宿泊しており、さらに通行者はそれよりも多かったという。
※ただし、記録についてはあまり多くは見当たらない(1889(明治22)年の斜里山道大改修、1890(明治23)年の佐藤喜代吉による「北海道旅行記」、明治29年に糸櫛別駅逓所設置など)。
※新山道の完成は明治26年という情報もある(昭和50年におこなった中標津町養老牛西村武重氏からの聞き取りによる)が、今回は明治18年として扱った。
C旧斜里山道の現在
・廃止となった旧斜里山道は、その後次第に人々の記憶から薄れていき、現在は道中のほとんどが農地造成や植林等をはじめとした開発行為などによって正確な位置が分からなくなってきている。そのため今となっては、一部の踏みわけ道がケネカ川沿いの国有林の中にひっそりと残っているだけである。