コロポックル 第3集

1963/9(昭和38年9月) 札幌南高等学校郷土研究部機関紙

目次

部員名簿

注;以下部員名簿リストは画像にて代える

郷土研究部の事

[郷土研究部について]部長 柳館克夫

私は、このクラブに入部して約1年3ケ月に成ります。現在は部長をして居りますが、私がこのクラブに入部した当時(1年生の時)は、このクラブの方針やこのクラブの存在価値等を、全く知りませんでした。学年の異なった生徒が集まり、学校生活や現在の社会等その他色々の話をする。そのような雰囲気(これはどのクラブも同じであろう。)又このクラブの特色である夏期遠征が出来るということが、私の心を強く引いたのだった。入ってびっくり、考古学という全くわけの分からない事を学ばなければならなかった。現在3年である大沼君、伊藤君等の指導のもとで、考古学を一生懸命学んだ。現在では大体の理解を得ました。

このクラブは我等の先輩が、フゴッペ洞窟を発見してから間もなく出来上がり、初期の頃は大変活発であったらしいが、昨年の前の年には活動不振、おまけに部室内は乱れ、土器はバケツやミカン箱などに、種類を問わず乱雑に投げ込まれている状態であった。それを、現在の3年生や2年生が整理整頓し、研究に努力を重ね、現在のように活発で研究心に富み、かつ明朗で立派なクラブが出来上がったのです。いや、新しい郷土研究クラブに生まれ変わったのです。さて、郷土研究といいますと、大変意味が広く、活動範囲も広くなるはずですが、現在このクラブの方針としては考古学を学ぶ事です。しかし、これらの部員の中で、他に何か郷土について研究したいと言う人が多数出れば、活動範囲を拡大しようとも考えております。現在の方針であります考古学といっても、私達の郷土、すなわち北海の先史時代を学びかつ研究するのです。では、何故先史時代を学び研究するのかといいますと、人間生活の時代の流れと空間の拡がりについて、正しい判断を得、そして人間社会の集団生活を歴史として理解をして、社会生活を自分のものとして体得する。それには、最も身近な地域すなわち郷土の研究からと、と言うことが出来ると信じるからです。このような目的の一端として、昨年はエリモ岬付近、今年は中標津町へと夏期遠征を行いました。今年は、参加部員数も20人と昨年きょ2倍に増え、中標津町遠征の内容も充実し、又成果も充分に得ました。遠征の内容ですが、後に明記があると思いますが、大まかに説明致しますと、7、8と当幌の住居跡分布の測量に、乱掘跡を採集して見た。(1号と28号)1号では墓か祭壇跡かと思われる列石を発見致しました。しかも舟型で、北側に先を向け、先端には、緑色火山岩を置いてある。その他にオホーツク式土器や擦文土器それに前北式土器と後北式土器を発見した。28号では、オホーツク式土器と前北式土器等が発見された。当幌は、内陸であるのに、オホーツク式土器が発見されたことは、面白い。10日、11日と計根別の計根川付近の住居跡の分布測量を行った。ここでも乱掘跡を採集してみたら、前北式土器が主に発見された。残念な事に、当幌や計根別は、沢山乱掘跡が目立った。計根別中学校寄宿舎は、設備が良く綺麗だったし、部員も皆楽しく生活を送った様子で私も嬉しく思っております。計根別中学校の生徒が手伝ってくれ、大変スムーズに予定が進み、又、後にまで研究する価値のある事物が発見され、今度の遠征は、大成功であった。北大の大場先生が計根別の住居跡を発掘する予定らしいので、遠征の結果がまとまり次第大場先生に報告し、はっきりしない点は大場先生から明解をもらい性格に報告書を作成し、中標津町に送りたいと思っています。将来も続けて当地へ遠征し、当地の先史時代を判明する予定です。又、当地の研究が終われば、他の地域へと手を伸ばして行きたいと思っております。最後に一言。昨年から生まれ変わったこのクラブが末永く栄えるようにこれからの卒業生(このクラブ員であった人)と連絡を取り同窓会等を作り、このクラブの繁栄を末永く保ちたいと思っているしだいです。1年生諸君。一生懸命学び研究を重ねクラブの繁栄に努力してください。

装飾把手付鬢,勝坂式土器,縄文中期

[私と郷土研究部]3年3組 清水康幸

それは中学校に入学してからまもなくだったと思う。私はT君は、私達の担任であるO先生に職員室に呼ばれた。当時私は、森町に住んでいた。そこには、尾白内貝塚という貝塚や日本中でも珍しい魚供養塚があって、森中学校の郷土研究クラブは考古学が盛んであった。私はT君にO先生は、その郷土研究クラブに入らないかと勧誘したのでありました。私は、男としてのプライドとそれに社会系統の教科が好きだったことも手伝って、さっそく入部する事に決めた。入部して、最初にやったことはT川の上流域地形調査であったと思う。自転車に乗り、一旦集合して出かけるのである。サイクリングのような気分だった。その時は、T川上流域の奇影と腰が痛かった事、それでも楽しかったことを記憶している。それから函館の五稜郭や森町警察署、役場、駅等を訪問、見学したがいずれも、つまらなかったと言うような感情は全然残されていない。つまり楽しさと言うことがいつもともなっていたのである。しかし郷土研究クラブは非常に個性の強いクラブである。だから入る人も多いがやめる人も多い。そして残った人は、そのクラブ活動が面白くて面白くてたまらないと言うような人ばかりである。その人達は、その感情を満たすために百姓仕事まがいの事をもあえていとわない。そこが郷研の百姓クラブのゆえんでもある。それであるからよっぽど気性の合ったものでないと長続きしない。そこで当然クラブ活動を通じて気持ちを許し合った同志の者だけの楽しいクラブとして形成されていく。郷土研究クラブとはそういうクラブなのである。さて話を進めよう。私が最初に発掘作業に参加したのは2年生の時であった。トレンチを掘った一区画内の表土をとりのぞき、掘って土器を見つけたら竹ベラでていねいに土をとりのぞき、掘り出す。そうとう根気のいる仕事である。土と取り組んでいるそんな時、土器を見ては、古代人はこんな幼稚なものを作ったんだな、でも、これは自然の環境の中から生み出された一個の必需品的芸術品だなと思い、石器を見ては古代人はこの矢じりをかざして生命を的に猛獣に戦いをいどんで行ったんだな。生活の為に...。今と少しも変わりないなと思ったりもする。つまり、発掘し先史時代の人々の遺物を見る事によって一種のさとりを開くのである。これは郷土研究クラブだけの最も大きな特色だと思う。このようにして中学時代の郷土研クラブは、現在から見るとまるで遊び半分の様な事を過ごしてきた。それほど気楽な郷研も高校では少し違う。2年の時入って以来、研究、調査、見学、遠征、学校祭等が息もつかせず後から、後から続く。それに大学受験も控えている。本当にセンセンキョウキョウである。でも私は郷研の活動が好きである。私にはそれほど魅力に湧れたクラブなのです。

勝坂式土器と石剣 石核白滝林出土

アイヌ語余話・大沼忠春

ぼくがアイヌ語を少々研究していた頃、母からおじいさんの家の近くに「ポン・田中」という人が住んでいるという話を聞いた。おじいさんの家は知床半島の古多糠という所であるのだが、大変私はその事に興味を持ったその付近の一帯はまだアイヌ民 族の子孫が多く残っている所なのであるが「ポン」とは正しくアイヌ語で「小さい」という意味の語である。しばらくしておじいさんの所にいる従妹が北野で聞いてみる と、本当に小さいのだという事を聞いて、益々面白く思った。いろいろな事を聞いてみると今でもかなり方言のようになって、アイヌ語が残っているそうである。その付 近の人は牧場の所を「チャッ」といい、崖の事を「ビラ」というそうであるが、「チャッ」とはアイヌ語で柵、砦を意味し、「ビラ」は同じく崖を表すものである。これらの言語は先に住んでいた多数のアイヌ民族に、後に住みついた和人が日本語より言い良い、アイヌ語を一般に使うようになったものであろう。下にアイヌ語のコレクシォンがあります。(注;ページ下部に掲載されていたアイヌ語コレクションは、文書の最後にまとめた)

打製石器と磨製石器・荒木幸也・1年

石器の大半は打製で、新石器時代になって石斧等に磨製が作られた。

打製石器

打製石器の材料は、黒曜石、水晶、安山岩、チャート等が多く使われた。その手法として石刃技法、台石技法、たがね打法、押圧剥離等がある。

石刃技法
これは直接技法とも呼ばれ、大きな礫を二つに割り、その割れ口を上にして周辺を打ちはがす。なかに残された多面体が石刃を取るための石刃核である。この石刃核からうすくはがして取ったのが石刃(ブレード)である。約5万年まえ。
台石技法
これは土の中に根をうめた大きな石に、駝鳥(ダチョウ)の卵位の石を打ちつけ、礫の一端を欠いて平面をつくる。次に平らな面の一端を再び台石に打ちつけ、木の葉状の剥片をはがし取る。それは先端に行くに従って細くなり、両端は薄く鋭利なものとなる。さらにはじめの石片をはがした位置に近くできるだけ長く鋭くまっすぐな石片をはがす。三度目の打撃は前二度の打撃によって打ちかかれた面が表に出るようにする。こんどはがされた石片は中軸に陵が通り、両側辺はカミソリの様に鋭く、いわゆる石刃の形となる。順次この作業をつづけ、中心部の核が細い三角錐状になるまで石刃がはぎとられる。
押圧剥離
これは石槌を用いて仕上げを行う。剥離具の材料にはセイウチの歯やクジラの門歯が多く使われる。剥離の先はややまがって先のとがった形を要求される。これによって、槍先の柄やえぐり込みなどが平にあるいは鋸歯状に加工される。日本の舟型石器も使われたらしい。
たがね打法
これも押圧剥離に似ているが、たがね状のものをハンマーでなぐった所が一寸異なる。

打製石器の種類
握槌
旧石器時代を代表する石器で、形態は西洋梨形又は楕円形である。用途は万能で手でもって使用、柄をつけて斧の様にして使ったらしい。作り方は石刃等を取ってしまった核を利用した場合と、大きな剥片を加工した場合とがある。
ナイフ形石器
現在のナイフと同じ機能を持っていたと思われる。形式的には、茂呂形、杉久保形、国府形、の3種があるが北海道では未だ発見されていない。
切出形石器
ナイフ形石器などの特殊形態で現在の切出に似ている。彫刻刀形石器と無関係。
尖頭器
ポイントと呼ばれ、広い意味では先の尖った石器、一般的には石槍等をさす。大きいものは30pくらいで小さいものはやっと2pである。大きいものは短剣として用いられた。手法には両面加工、片面加工、半両面加工の3種がある。形態は柳葉形、木葉形、有柄形等である。北海道では石刃や船底形石器に伴って両面加工のものが発見され、細石器の後まで影響する。
石刃
石刃は石刃核の大きさによって長さが決められる。北海道最大のもの巾6〜8p、長さ30pにも及ぶ。この石刃はひげをそることさえ出来るのもある。石刃は長さからいって、大形、中形、小形、細石器として四形態に分けられる。石刃の断面は台形をなし両側面はカミソリ状である。
彫刻刀
石刃を用いてその一端に彫刻刀面をきざんだものでドライバー状と丸ノミ状の二形態がある。
船底形石器
用途はあまり良く分かっていないが、擦り傷のあるものが発見されているところから剥離具としても用いられたらしい。
掻器
獣皮や樹皮等をはがすのに用いられたらしい。石刃や貝殻状の剥片を材料にしてその先端に断面が鴨のくちばし形になるように加工する。ほとんど全ての時期に使用されたらしい。

磨製石器

これらの素材は水成堆積岩が多く用いられている。その手法として砂岩のようなあらい砥石を選んでこれに石材をすり合わせて磨滅させるのが普通である。しかし石斧等を始めから磨きあげていくのはいたずらに時間を費やすだけである。従って大体の形を打製法で作り、次に喙敲法(かいこうほう)を適用する。(かいこう法とは石屋が遣るように、先のやや細いハンマーで岩石の表面を粗けずりする方法である)その上で刃部に最後の研ぎをかけるというのが、新石器の磨製法であったらしい。又擦切手法といって厚い板の様な厚材をあらかじめ両側から溝を引き引き切り手頃な材料に分割する法を用いた。この場合石鋸の役目をはたす純器と金剛砂が必要である。擦切手法を用いたのは材料節約の為という説と大量生産のためだという説があるが、特殊な材料を大切にすることから、前者が有利である。

磨製石斧
定角式、乳棒状、擦切等ある

磨製石器の種類図

フゴッペ遺跡調査の事

フゴッペ 伊藤建雄・三年生

フゴッペの洞窟というもの事態については他の機械にゆずるとして、今ここでは札南郷研の毎年の恒例行事としての、新入生フゴッペ洞窟見学を、ここ3年の比較をしてみたいと思う。我々が1年生の時にはただ一寸した散歩の様な恰好をして、雨が降るとか降らないとかワイワイいいながら行って、見て、泳ぎたいなあ等とブツブツいいながらなんとなく帰ってきただけであった。昨年からはニューモードの郷研スタイルで出掛けた。一大特徴としては、事前に研究会を開いたという事である。吾郷研の先輩が発見し、世界の考古学会に新資料を提供し、その感謝状まで在りながら悲しいかな我々は何一つ知らなかったのである。だから事前に充分に出来るだけの事をしていった。そして単なる見学に留めず、大ストン・サークルの見学、小ストン・サークルの発見、付近での遺物表土採集等を行った。一昨に比べれば大きな進歩だと思う。更に今年は昨年の経験を土台に一段と研究を進めた。現地では先ずはじめにストン・サークルのある山に登った。ここはただの見学であった(雨上がりなので草が濡れており下半身がずぶぬれとなった)。次に昨年発見した小ストン・サークルの所へ行く途中の畑で多量の土器、石器等を採集する事が出来た。内容においては別に変わった事もないが、その場所から多量に出土したという事が問題である。というのは昨年ストン・サークル見学の際にやはりこの付近には何らかの遺物があるはずと思い、探したのだが何もなく、結局住居等は無かったのではという事になった。それが昨年探した所から百米も隔れていない所から多量に出土した。ここは一つの丘上であり、ゆるい傾斜を持っており、丘の上も比較的平らであり、遠くにフゴッペ洞窟や海が良く見渡すことが出来、この丘の下を川が流れている、という状態であった。時間がないので早々とそこを引き上げ、小ストン・サークルへと向かった。ところが行ってみてびっくり、石がきれいに取り除かれ畑になっていた。見覚えのある石が一ケ所にまとめて捨てられてあった。このストン・サークルは小さいがよく形の整った、荒らされていない貴重なものであった。一同とぼとぼと山を降りる。この後毎年行っている畑で毎年の如く一年生に表採させる。珍、もしくは貴重なるものはあまり出てこない。それでも意義は充分に果たされた。というのは、このフゴッペ行きは第一に表採の面白さ考古学の楽しさを習得させる事、第二に夏休みの遠征に対しての行動技術について慣れてもらう、もしくは覚えてもらうことであり、第三にフゴッペの洞窟という史跡を見学する事である、を見学する事である、そして第四にみんなが親しくなり団結の基をつくる事である。こんな観点からすれば今年の遠征も又おおきな成果をあげる事が出来たと思う。それから忘れていたが、今年はアイヌのチャシがあるという情報を事前に得てそれをこの度確認してきた。海水浴場から洞窟の方へ行くのにトンネルがあるが、その山が海へ沈む先端にあるというのだ、なる程遠くから見るとそんな感じである。そこへ行くのにはけわしい峰をまたいで行かなければならない。ズブぬれになりながらトンネルの上の方からアタックした。ずっと先端の近くまで行ったが、危険でどうにも出来なくなりやっと引き返すのみだった。そこから安全な場所へ写る所で鉄のかたまりを拾った。それはかなり腐食していてあまりよく形は分からないが、刀の折れたものに大変よく似ていた。少なくとも何かの刃物であったと思う。頂に着いたが、ここをよくみると、海水浴場側が土を盛ってあるらしい事が解った。横のくずれている所を軽く掘ってみたところ、平らな川石が数個出てきた。その他貝殻のくずれたものが多数出てきた。ほぼチャシに間違いないと思ったが、所により不詳の所もあった。しかし伝説にでている事なので、チャシであろうと思う。来年の詳しい調査を待つ。

フゴッペ風景

フゴッペ付近遺跡調査 三枝忠司・1年

私は、郷土研究部に入部する前は、北海道の祖先の人々の事は充分に知らなかった。今まではアイヌ人しか住んでいなかったとと思っていた。しかしクラブに入って色々聞いてみると多くの民族が昔寸でいた事が解った入部してすぐフゴッペ付近調査に行く、オレたち1年はこの日を待ち望んでいた。特にオレは遠足にでも行く様な感を持っていた。雨が降っているが7月の日曜日海水浴に行く人で満員、こんなんじゃ来なけりゃ良かった。ダンプカーとの衝突もなく、無事に蘭島に着く、生まれて始めて汽車のトンネルを歩いて通った。なかなか良いと気分である。ストンサークルへ行く途中で食べたサクらンボは大変うまかった。あと百回位食べたい。ストンサールクは只石をゴロゴロ置いてあるだけで、蟻の巣がこの辺一帯に出る。気持ち悪くてじんましんが出そうだった。そこから出て記念写真をパチリ、みんなよそ行きの顔をしている、特に女の人は見合い写真でも撮る様にすましている。「土器だー!!」とワメキながら走って来た者がいた。そこでオレもこの辺を表採する事にした。あるある、土器の破片が沢山ちらばっている。石器も有る。耕されていなければ土器の完全品が出たかもしれない。「ああ無情」である。第二のストンサークルはあわれにも取り壊されていた。こんな所にも、狭い日本の国土を少しでも利用しようとする考え方が有るとは思っていなかった。大変にこのストンサークルは立派だと聞いていたのでガッカリした。この丘を下ると川に出る。「昔はこの川にもサケが登って来たんだろうな」と思った。又サクランボを食べながら歩いた。特に一年生はサクランボを取るのに熱中していた。オレは土器や石器を入れたナップサックを持っていたのであまり取らなかった。そのかわり取った人から少し貰った。表採が始まった。もうサクランボを食べている者は居なかった。黒曜石が当たる石器である。私たちが黒曜石から石器をつくろうと思ってもなかなかうまくいかない。昔の人はよく立派な石器を作ったものだと感心する。時間が無いのか表採をやめて、フゴッペの洞窟めざして行進する。オレのナップザックは一段と重みを真下。洞窟の前で食べた握り飯は腹が減っていたせいか、うまかった。この洞窟は我等の先輩の見つけた所である。だから南校生はこの洞窟を見学する義務がある。もし見学したい者が居たならオレが連れていってやる。汽車料金は心配するな。洞窟内には彫刻があり、それをみるのには金網の中に入らなければならない。中にいるとエテ公の様な気がする。彫刻は天井から地面の下まで彫られている。チャシコツの調査にいった二人が帰ってくる。彼らの姿は百姓スタイル満点である。今日最後の仕事としてチャシコツ探検をする事にした。狭い岬の上をいくのはなかなかスリルがある。危険だから途中で戻った。帰ってくる途中鉄器らしき物を見つけた。なんだか鋸の様な感じのする鉄器であった。汽車の時間までまだ大分時間があったので海で遊んだ。駅の近くの食堂に入って食べた氷水のうまくない事、世界一である。私がこの調査で一番印象に残ったのは、チャシコツから見た海の美しさと、北海道古代人が鉄器を持っていたという事である。

土器片図

フゴッペ洞窟へ行って 山県道子・1年

 "あけてびっくり玉手箱"といいたかったけれども我々の通称「足長おじさん」なら三歩で奥までつくかもしれない(?)という程、奥行きの狭い洞窟でガッカリした。あまりにも扉が厳丈な上、三重にもなっているので、さぞかし巨大な洞窟が現れるだろうと期待していたので尚の事、ガッカリした。三番目の扉には網が張ってありそれ以上普通一般の人は入れないらしいけど、私達の先輩が発見したということから特別に私達だけその網の中に入る事が許された。中に入ったとたん、カビ臭い臭いと、ジメジメした土でつい2・3秒前迄は汗でグッシォリしていたのだが、急に背筋のあたりがゾクゾクし始めて、寒い位になった。岩にはなにやら人間らしきものが沢山彫刻されていた。それにしてもずいぶん古い洞窟らしくいたる所丸太棒で支えられてあった。彫刻を見ているうちにも、汽車が通るとガタガタと地震が起こった様な感じがした。私達(純情可憐なやさしい乙女達?)はいつ岩が落ちるかと気が気でなかったので早々に網の外へ引き上げた。にもかかわらず心臓の強い男性諸君は、まだオリの中のサルの様にうろうろしていたので、私達はカギをかけてあの横暴(?)な彼等をオリの中に閉じ込める事にした。その時暴れワメイている彼等を見ているうちにふと、昔古代人がここに生活していたであろう姿が浮かんできた。苦あれば楽ありで行きは雨に降られるし、鉄道線路でころんでズボンは破れるものの悪条件続きであったけれども、帰りは帰りは最高に調子がよかった。というのは、食後のデザートとしてサクランボをタダよりやすいものはないとばかりに食べたりひどい時には作業中も「上を向いて歩こう」を歌いながらサクランボを食べるのに夢中。これには下をみながら遺物を探している3年生思わず渋い顔! それから帰りの汽車の時間にまだ間があるというので蘭島海岸に行ってボートに乗った。それから全員雨あがりの草を踏んだため、ビシォビシォなった靴を焚き火で乾かす事にした。そのうち周りに泳ぎに来ていた家族連れが自動車で帰りはじめたのには、あと2時間余りもここで待たなければならない自分達がどうにもわびしくてたまらなかった。駅へ行く途中誰かが「ヒッチハイクしよう」といい出したので、皆それぞれやって来る自動車に手を振ったけれど勿論止まってくれるものはなかった。ジャリトラなんかは私達の前をすごいスピードで去っていった。 この日一日の収穫は、今まで部会があってもどうしても校舎が分かれているせいか、北校舎の人となじめなかったが、たったこの日一日ですっかりわだかまりがなくなった様な気がした。私にはこの日が最高に意義深い日であったように思われる。帰りの汽車の中ではいつまでも話がつきなかった。

フゴッペ洞窟の彫刻図 後北A式土器 擦文式土器

遺跡を大事に

去る七月十四日、古き郷土の埋もれた文化財に探究のメスをふるうグループ十数人で、蘭島のフゴッペ沢の調査を試みました。小雨もようにもかかわらず昨年以上の成果をあげた事を喜び合いながらストン・サークルのある丘にたどりついたが、無残にもその遺跡が完全に破壊されていたのです。 この遺跡は小さいながら形の整った見事なものでした。が、なんら保護の手を加えられていないので土地の地主が列石を取り除いて畑にでもしようとしたものと思います。しかし土地は"個人"のものかもしれないが、先人の残した文化財は"公"の物で、たとえそれに無関心であったとしても、こんな心ない仕打ちをされるのは許されないと思います。 又、この辺には大型のストンサークルも草に埋もれて残っております。それまでも破壊されない様に願いたいし、関係当局もこれら先史時代の遺跡に、なんらかの保護を加えていただく様願うしだいです。〔北海タイムスより〕(札幌・道立南高校郷土研究部)
これはフゴッペへ行った時の事を投書したものです。この様に遺跡が破壊されることにより、究明されようとしていた事が又暗黒の未知の世界へ突き落とされる事が多大にあります。フゴッペ洞窟もそのまる山全体が砂岩のため汽車の通過する毎にパラパラくずれています。早く保存の為の工事の行われるのを待ち望んでいます。

大躍進38年度遠征 伊藤健雄

 昨年度を1・2年今年は123年という編成で、人数が十一名から二十名、予算が一万五千円余りから二万数千円。日程と同じ一週間、個人負担が五百円から一千六百円と三倍。内容において、ただぐるぐる廻って歩いたのから住居址群の測量分布図作成と、全の面で昨年より一まわりも二まわりも、大きくなっている。こんな点から今年の遠征は昨年の遠征を、昨年の責任者、今年の引率責任者としての立場からみなみたいと思う。

昨年は、わずか二人の二年生で一切の仕事をしたために、記録、会計の面でかなりずさんな面があった。でも人数が少なかったため、全ての点でよくまとまったと思う。今年は、二人の三年生は実際の仕事の責任はなく、ただ全体的な遠征の責任をとっていただけであり、他は部長と二年生でそれぞれ実際の責任を分担したということになっていた。成果がまとまらなかった、ということである。人数が増えるたびに大いに気をつけなければならない問題がある。団結という事はもう一面からみると指揮がはっきりしているという事と、下が上をささえている、組織しているという事である。組織しているという事は指揮に従うという事だと思う。人数がだんだん増えてくると、仕事は大がかりなものが出来るようになる。しかし、先にあげたような問題が増々深刻に、根を深くはってくるのである。これは、普段のクラブ運営の面でもいえる事だと思う。昨年の遠征は有経験者が一人もいないので、顧問いかおっかなびっくりで行って来たものだった。そして調査とは足の事であるとみつけてきた。エリモ岬は景色が良く、空気がカラッとしておいしかったせいか、つかれなどあまり感ぜず、つかれたとしても一晩ですぐ回復したものだった。実に楽しい。今思えば遊び半分の様な遠征だった。ところが今年は蒸す様な暑さや湿ったじめじめした寒さ。歩くのに目標も見えずただ歩いた原野の道とか湿地帯の中をヤチボーズやドロや虫とたたかいながら歩くという様なあまり楽しくないような調査だった。その上中心になる作業が測量である。いろいろな作業の中で一番つまらなく一番ヒローを感じる仕事である。そして草刈りがつきまとう。背丈程も草があるのでまずこれを刈らなければ何も出来ない。広い台地の上をなれない手つきで草を刈るのは本当につらかった。そして全て時間の制限がうるさくつきまとってくる。しかし今年は町教委の大変な好意でラウスまで行く事が出来、非常に楽しい一日もあった。測量の方も今年は杭を沢山打って各々番号を書きつけて打ってきた。百五十本程打ったと思う。服装は昨年と変わらない狂犬スタイル。札幌にいては見られない恰好。時間がとにかく守れなかったと思う。寝不足は疲労の基。うれしくてどうしようもないのかもしれない。食事の係は大変だったと思う。今年は女子が多くて、一人一寸熱をだしてしまった。が、無事良くなって帰って来られたので安心した。一般に男子女子の差はあまりなかったといって良いだろう。頼もしい限りである。今年は宿舎の設備が良く、大変便利であった。

とにかく今年は幸年と比べて大きな躍進をとげたと思う。躍進というよりも、昨年作った土台を今年でガッチリと確実なものにしたという方が適当だろう。今後は少数の三年生、OBが必ず参加する事によってもっともっと発展を期待出来そうである。遠征はやはり二年生が中心であるという事を、今年の教訓として2・1年は考えてほしい。今年は昨年に比べて遠征のみに限らず全ての面で充実した感があふれている。学校際にもこの勢いであたってほしい。
狂犬のボス

オホーツク文化遺物

遠征の事

今年の遠征地は中標津町で、当幌の竪穴群と計根別の西竹地区竪穴群の調査をした。両地区共、竪穴分布図作成の為番号を記したクイを打ち、分布図を作り、当幌は相当荒らされていたので、1号と28号をトレンチし、計根別では、建築工事の為の砂を取るのでブルドーザーをかけた所で表採した。最近の情報によるとブルドーザーをかけた跡から人骨が発見されたそうです。

当幌地区調査状況 大沼忠春・3年

今回我クラブでは中標津町管内の遺跡のうち計根別西竹地区と当幌地区の調査を行った。

当幌地区では、竪穴測量のため番をうったくいを一本づつ打ち込んでいった。それで昨年僕の発掘した所は26号となった。ここの竪穴はほとんどすべて荒らされていたので、1号と28号をトレンチしてみる事にした。

1号は南北に5.8mのトレンチを掘ったところ、ちょうど中央付近から、オホーツクと擦文の融合型らしき土器片数個が出土した。その下すぐから、現代の舟型に直径10p程の大きさの石を33個ならべた石列が発見された。(深さ約65p)ちょうどそれのへ先にあたる所が緑色の石で、全体として見た場合。それが何か神聖なものに感じられた。従ってこれは墳墓か何かそれに関係ある様に考えられる。又、面白い事にはそのへ先がちょうど北を向いている事だ。まったく磁石の針のようである。なおトレンチの北端からは前北式と思われる土器の破片や黒曜石有柄石鏃が2個出た。又、中央から西にトレンチを切った所土器片と共に数個の石を一かたまりに建てたものが発見された。これも中央の列石に関係があるのかと思ったが全く地層がちがったので多分関係は無いものと思われる。この1号竪穴は、はじめ竪穴住居址であろうと思ってトレンチしたが、なかなか壁が見つからず、中央から石が出た時も炉址だと思ったが、掘り広げると舟型になっていた。それに中央からは前期の土器しか発見されなく、他はまわりから発見されたので、「住居址ではないのではないか」という見解が強くなった。しかしなにぶんにも全部掘ったわけではないので、はっきりした事は不明である。

28号竪穴は河岸段丘の斜面の所にあるもので、はたして住居址なのか何なのか、解らなかった。その予想を裏付けするかの如く、始めは掘れども掘れども何も出てこない。昼まで掘っても土器片一つという状態。一応表土のすぐ下か黒土層を掘り終わり、灰色の粘土のような層が現れた。それが終わると灰色の土と黒土が混じって来た。しかし又黒土層を掘れども掘れども遺物らしき物にお目にかかれない。いいかげんいやになって来た頃、ヒョイと放り投げた土から土器が転がり出た。よく見ると今まで揚げた土の中からも土器が顔を出している。ギョッとしてして穴の底を見るとまた破片が沢山ある。みんな「はっちゃき」になって拾い出した。とうとう中央だけは火山灰の層まで掘り出したので、次に各トレンチの灰色の層を取り除いていくと、4号トレンチからオホーツク式土器1個分位の破片がつぶれたまま発見された。竹ベラでそおーっと土をはがす。写真を撮る。静かにはがしてポリ袋に入れる。天にも昇る気持ちだ。後で、3号トレンチから多数の土器片が出土した。

当幌地区調査状況

1号竪穴調査状況 畑宏明・2年

当幌地区竪穴群測量の結果、この遺跡全体に及んで乱掘されている事が確認された。我々はフゴッペのにがい経験を思い出し。とりあえず、1号と28号をトレンチした。我々A・B合同の一班は一号竪穴にあたる事にした。時間のつごう上東のトレンチが出来ず、南西北のみとなった。北をT、南をU、西をVと呼ぶ事にした。

中央、ここの地層は黒土層が二層あり、間は軽石のまざった土である。黒土層の下は砂粒の混じった赤土である。面白い事にその赤土に接して、オホーツク式土器の口縁部が出土した。その下約5pの所に自然石が発見された。炉石かもしれないというので南へ掘り進んだ。すると1m 位真っ直ぐ行って東へ向かっている。これは変だというので掘り進むと又北へ曲がっている。全部掘り出してみたところ舟の型をしている。そしてちょうど頭を北に向けて先の石が緑色の火山岩である。一見して墓の様であるが...? ほとんど接する様にしてオホーツク式土器が出ているところからオホーツク人の墓? オホーツク人の墓は貝塚の中にある。とするとこれはちがう。初めに予想した擦文人か? 我々のトレンチからは全然擦文式土器は出ないし、擦文人の墓は頭を南に向けた伸葬であるといわれているが、これは外見状からすると多分北を向いていると思う。残るのは前北式土器を用いた人々か? それでは何故オホーツク式土器がすぐ上にあったか? これは大場先生の話によると、「すでに前北式土器を使用した人々が去った後にオホーツク人がやって来て掘り返した」という事であった。しかし僕には前北式の墓が竪穴であるとしか解らず、地表標示をしたか、否かについては不明なのではっきりした事は言えないが、おそらく竪穴であるという点が一致している所から前北式土器を使用した人々のものではないかと思う。

1号堅穴調査状況

28号竪穴調査記録 柳館克夫・2年

この住居址は小高い丘の南西面の斜面上に位置し、この住居から2、30米下ると川か流れている。ここからは川向こうの見晴らしがわりとよい。ここから西に10m程下った所に、豊かと思われる四角形の盛り上がりがある。この竪穴と土盛りらしきもっが何らかの関係があるものとみてトレンチをはじめた。糸を張り、グラフ用紙に記録をする。表土をはがしてゆく。北を1、西を2、南を3、東を4、中央を5とした。黒土を掘り下げて行くがなかなか遺物が出ない。しばらくして3より黒曜石片、2より土器片、4より木炭や川石の小さいのが出た。しかし又すぐ出なくなり灰色の砂と粘土の混じったものが、火山灰の様な柔らかい層にぶつかった。もう床になったのかと思ったがおかしいので中央だけを掘り下げていた。黒土層が現れ、土器が出てきた。それで各トレンチをもっと掘りさげるよう命じた。各トレンチから順に遺物が出はじめた。4よりオホーツク式の口辺出土。引き続き同じ所から押しつぶされたような形で土器が出土した。一時作業を中止して見学する。記録が忙しくなる。後3と4から主に出土。いつでも60p以下。1、2は遺物が出ないので受持ちの一年生がブーブー言いだす。午後になって中央の床が出る。

中標津町管内の遺跡 大沼忠春

先史時代の遺跡というものは川と切り離しては考えられない。ここの遺跡も例にもれず、川に沿って存在している。先ず一番古いと考えられていて、一番大きな遺跡は計根別西竹地区にあり、縄文文化期中期あるいは前期まで逆上ると見られている。又規模は竪穴の数約300、チャシ2ケ所、その他1ケ所である。この遺跡は20年前より付近で農業を営む佐川氏によって調査が行われていて、昨年八月、当時計根別中学校教諭梶井与士一氏と共同で遺跡の発掘を行い、その重要性を一般に知らせた、又鑑定を行い、重ねて遺跡の重要性を認められた。計根別ほど時代は古くないが十数年前より知られている遺跡に当幌地区の遺跡がある。この遺跡は乱掘がひどく、昨年八月南高郷研大沼と釧工土木の関谷が現地を訪れた時にはほとんど原形ををとどめていないかにみえた。そこで一応草をわけて調べてみると地表より住居址と判断のつくものは全て掘られているのがわかった。そこでまだ手のつけられていない、住居址かどうかわからないような浅い窪地を発掘したところ、表土直下より擦文式土器○○○片が多数出土した。本年も昨年に引き続き拡張して、発掘を行ったところ、表土直下より鉄鏃と擦文式高杯型土器多数が出土し表土直下の黒土層からは、同じく擦文式鉢型土器と同時に、擦文、オホーツク、前北式土器が出土した。又その下の褐色土層の下の第二黒土層からは、前北式あるいは後北式と目される土器小片が数個出土している。これらによりこの遺跡の古さは縄文晩期頃までと思われる。次にあまり知られていない遺跡が上武佐地区にある。そのせいか計根別や当幌のように掘られているものは全く無いと考えられる。しかるに遺物の報告もないのでこの遺跡については、すべて不明という外はない。今後の調査を待たれる遺跡である。なお竪穴は百位あるのではないかと思われる。

炊事と保健を担当して 西野先生

私には、全く無知な郷研のクラブに参加して、日本八景の一つ、狩勝峠を越えて、霧深い北の果て、中標津の遺跡調査の炊事と保健をいつのまにか担当させられたものの、私自信、炊事の経験はなく、おじょうさん方ばかりの女生徒が急に二十人もの炊事をするのだから大変で、設備はカエルがつまって水が出なくなるような、いとものんびりしたものでも、水道もあり、炊事道具もそろっていたが、不幸中の幸いといったところです。

一人では持ちあがらないようなお釜を相手に相手に、明日が炊事当番ともなると、さすが南高生、就寝前の一時を御飯の炊き方を予習するのに余念がないという涙ぐましい努力。味の点は我慢して下さい。朝の出発時のおにぎり作り、一年生諸君男子諸君の応援生まれてはじめて、おにぎりを握る諸君ではあるが、素質は十分。いなり寿司も三年生のA君が鼻水をすするような真似をしながらの陣頭指揮で、みんなの食欲減退のような顔、汁の中に塩、コシォーを入れていたずらしてた諸君の顔が目にうかびます。ただ残念なのはB子さんが熱を出して医者を呼んだ事。又全員防虫クリームを塗っていたにもかかわらず、トーホロの虫の威力を思い知れとばかりに、服の上から虫にさされたのにはおどろき。帰り近くなり疲労がたたってか、二三の人が風邪気味で、声が変わり、低音の魅力を発揮していたよう。

これからの遠征は体力に応じた仕事の分担を考えると共に、各自は寝不足にならならよう充分注意して全員無事に帰途につける様して頂きたいと思います。

最後に、なお一層の努力の基に、郷研の発展を期待しております。

中標津遠征に行かせて (広瀬君の母)広瀬道子

夏休みも終わり、子供達は再び登校する様になりました。今年の夏は、中標津まで、子供をクラブの遠征にだした訳でしたが、それを終えた現在、私は色々の思いに耽っております。そもそも郷研クラブの名を聞いて主人は「息子が考古学なんかやっちゃ親父死ぬまで働かねばならぬ」と冗談ともつかぬ事を言って、私は苦笑させられましたが、私自身、遠征まで行かす考えで、クラブに入れた訳では無く、ただ分校の生徒であるが故に、本校の先生や先輩に少しでも接触させたいと願って、クラブの入部もあえて反対しなかった筈なのに、子供の喜びを他所に気の重い毎日でした。ただし準備も整い、子供は新しいリュックに夢を一ぱい詰めて元気に出かけて行きました。そこで私は、友達や知り合いの誰彼の誘いを受けた訳でもなく、自分で本当に好きでこのクラブを選んだ我が子を静かに見守って見ようかと、そんな気持ちで送り出したのでした。丁度出発は南校郷土研究クラブの一行がオホーツク先住民族の遺跡を発見し、乱掘址をトレンチして、土器や鉄器を発見したとのニュースを聞き、遠征の効果はあったのだと、思わずほほえんでしまった程でした。その夜は、喜びに湧く若者達の姿を想い、早くも土器にふれた子供達の喜びは如何ばかりかと、彼らを忍びつつ床につきました。何の関心も持っていないこの私でさえ、不毛の地と言われる北海道の原野に千年も二千年も前に人類が生存していたとは、どんな生活をしていたのだろうか、又どんな風に亡びていったのだろうかと、不思議な念が次々と湧いて来るのですから、まして興味を持っている若い彼らには、じかに触れる事の出来た遺跡に、どんな重いでトレンチしたであろうかとしきりに考えさせられました。きっと、昔語りの空想の世界にまで思いを走らせながらトレンチした事だろうと思っています。そうしてこの報道を耳にしましてから私は、今迄食事の量は足りるだろうか、慣れぬ土地でおかしな虫にさされねばよいがと、あれこれ心配し続けた事も次第にうすれて行くのを感じる次第でした。

帰札した息子は、すごく元気で、あれほど気づかった体力の消耗も見受けられず、より以上に成果の上がった遠征を如何にも楽しそうに話してくれるのでした。そして日数が足りなくて、思う事の半分も出来なかった事をとても残念そうに繰り返しつぶやき、さらにこの体験を生かして来年こそ、心残りなくやって見たいと、思いは早、来年の夏へと飛んで行く様子でした。又この度の資料を生かして、愛好者や後輩のためにも立派に残さなければと、昨今はその仕上げに余念がない様子です。其処で、来年は2年になる我が子に、私は快く遠征に参加させる事が出来るだろうかと、思いあぐんでいるのです。と言う事は、夏休みは高校生にとっては、学力増進のまたとないチャンスだからです。じっと見ていますと、遠征に一週間、後先の準備や静養にどうしても一週間費やしているとしますなら、折角の夏休みも大方は、この為に費やされてしまうからなのです。まして、終戦っ子と言われる今の子供達の三年後を見ますと、どんなにはげしい受験難の時代に遭遇する事であろうかと、誠にお寒いものを感ずるからであります。(国をあげて北海道の産業開発が叫ばれ、北海道がその注目の的でありながら、その基本である所の文教対策の誠に貧弱な事が−−以上訂正文)とにかく大変だと言う事が想像されるからであります。話が以外なところにトンでしまいましたが、常に考えている事がつい口に出てしまった訳でして、これも母親のぐちとしてどうぞお聞きのがし下さい。只青年達の好きな道を歩ませたい気持ちも、遅れをとらせたくない気持ちも母親なればこそ、身に沁みて感じているのです。

最後に、引率の先生方、そして上級生の皆さん、この様に楽しく、しかも有意義なうちに、色々と学ばせていただいた事を、心から感謝いたしますと共に..(かすれてよめず)

装備品のカット

中標津遠征に行かせて (山県さんの父)山県裕治

社会科に弱いという事は、常識には欠けると言う事にはならないかも知れないが、机上の学問が直ちに社会に役立つとは、考えられない。それよりも社会的な常識が、学問に役立っている事(最も高校程度かも知れないが)は、我々が常々感ずる事である。道子にも事ある毎に、社会科に強くなる様に熱望して来た。それ故かどうかは知らないけれど、郷土研究クラブに籍を置かせてもらっているらしい。あるいは、あるいは休暇を利用して旅行に出かけられる事に、魅力を感じたのが原因かもしれない。どちらにしても悪い事ではないので、本人の意志通りにした。然し、旅行、調査、研究となると中々大変な事である。一人っ子でわがままに育った道子に、皆様と一緒に行動出来るかどうか、甚だ疑問に思っていたが、案にたがわず目的地に着くや否や病気になり、高熱とホームシックに苦しめられ引率の先生方始め同行の皆様に御迷惑をかけっぱなしで帰ってきた。様子は思ったより元気で、非常に面白くて来年も是非行きたいと言う。大変皆様に心配をかけ、お世話になっていながらまた来年も行くと言う。無反省ぶりに吾が子ながらつくづく顔が眺められた、来年も是非行かしてやりたい。こんなに喜んでいる旅行であれば。然し心身共に今の様な状態では又同じ様な事を繰り返す事になる。そこで私は、来年迄に必ず心身共に、健全なものにする事を条件に許可する事にした。と言う様な次第ですので、来年もよろしく御願いいたします。と頭を下げる親馬鹿が一人ふえた事を、御報告申し上げ、筆を置きます。

中標津遠征2年生としての苦心談 2の4 畑宏明

一応前のようなタイトルになっているが、苦心談と言ってもさほどめぼしい物もないので、思い出しながらパラパラと、調子の良い事を書こうと思う。まず行かなきゃ何も出来ない。そう言う事に世の中は出来ているらしい。仕方ないから行くと!汽車車中皆んな騒いだ様な騒がない様なマア普通だな。誰だか忘れたけれど駅のソバのドンブリを汽車の中に、持って来た馬鹿者がいた。くだらん事をするやつも居るもんだ。全く。以外と釧路って所は遠いと感じた。(行った事ないもんで)そこから乗り換えて又又標茶で変な車に乗り換えて、やっとついた計根別。相当に山の中に来たなあ、と思ったが回りは山何ぞは全然無い。人の居ないのが気に入った。又道の真ん中に寝れると思うと心がはずむ。計根別中学校に行って見て、グッド、思っていたより良い設備。その日は適当にやって、適当に寝た。何をしたか全く覚えて居ないので悪しからず。翌日変なバスが来て変な所に我々を連れていった。牛のふんを踏みしめ目的地へ五百余歩、着いた所が何のことはない、ただの草っぱら。白い花が咲いていた。それと地面に穴があいているのを計って図に書いて、こんな事やってどうなるのかなと思う。その穴に又変なザンゴーみたいなものを掘って、石ころやドロの焼いたものを、ハッチャキになって捜す。マアマア何てくだらない事を...。南高生ともあろう者が。あー暑い暑い。草刈りで出来たまめが痛い。仕方ないから穴を掘る。翌日は丸一日穴掘りをやった。変な石ころがゴロゴロと出て来た。墓だか祭壇だかデタラメな事ほざきおって。あれは昔の寝相の悪い赤ん坊が、変な所に行かないように囲っただけの事だ?まあ今で言うとデパートで売っている赤ん坊用のオリだ?。ハッハッハッ。第三日目、休みを取ってみんなで知床へ行く。山県さんと伊藤さんが病気で行かなかったのだが、しずかだったのはそのせいかな?あーそうだ、一人静かなのが乗って居た。思い出した思い出した。街の人間は知床、知床とギャーギャー騒ぎ居るが下らん。海が在って海岸に石がゴロゴロしていて、たまに舟が浮かんでいるだけ、全くどうして皆あんなつまらない所へ行きたがるのか気が知れない。ラウス温泉何ぞと調子の良い事を言った所で、ボーリングしてだした奴、ああいうものは自然に地殻の割れ目から出るところでムードがあるの。本当ですよ!何とかホテルに一寸可愛い女の娘が居た。第四日目、つまり8月10日この日は我々のイカレドモの厄日であった。一日中道に迷っていた。やっと最後の目的地マス川に着いたとたん「サー帰るか」と来ちゃう。背骨にガクガク来ちゃった。第五日目、昨日クイを打っておいた計根別の竪穴群を測量。これで最後の一日丸々パー。実に短い。この日位になると皆疲労で動作が鈍くなる。ここで一発カァッ。

やっと苦心談が出ました。要するに3年生にも言われていた事だが、特に疲れた時は仕事がはかどうないので、時間のロスばかりするからそこでギュッとしめると言う事。只それだけの事です。騒ぐのは僕が多分一番だったと思う。又悪い事すべてやったと思っています。然しこんなくだらない2年生の言う事を1年生は、良く聞き良くはたらいてくれたと思っています。最後の晩は7・8人が徹夜をやり、帰りの汽車の中でみんなグーグーだった様であった。一番つらかったのは皆同じと思うが、僕は最後の日の測量であった。単調で遺物発見の興奮が全然ない為と思われるが、皆最後と思ってしめてくれたので助かった。一番楽しかったのは其の晩の事....です。

遠征こぼれ話 顧問 堀学夫

今夏、中標津町遺跡調査が我が郷研部員の手によって行われたが、結果的にはかなりの成果をあげた様に思う。新聞、ラジオで大々的にされたというPRもあって、南校郷研ここにありとばかり、部員の意気軒昂たるものがある様だが、そのあと始末がなかなか面倒、しっかりたのみますぞ。ここで一つ二つ遠征中のこぼれ話を拾って、私の責任を果たす事にしよう。調査団一行二十名勇ましい恰好で、計根別駅に下車したところ、田舎の小駅だから駅員も二・三人、びっくりした表情でいわく「ありゃあ学大生じゃなかろうか、遺跡調査に来るって新聞に出てたからな、遺跡なんてこの辺にあったかな」

当幌地区では林の中に8m四方もあるでっかい竪穴住居群を発見。こんな所に肥溜がある筈もなし、ひょっとすると戦時中の陸軍弾薬庫址かもしれないぞ。このへんはめんどうな場所だがなあ、いや、それは無理だよ。これは先住民族の集会所だよ、案外面白い物が出るかも知れないぞ...途方もない穴を見つけたばかりに、郷研雀達学のある所を見せようとしてうるさい事、大山鳴動してネズミ一匹も出ず、といったところか。

大沼君の健脚は古来有名、朝飯前の散歩に行こうとばかり、2・3人の1年部員が随行と仰せつけられた。行き着いた先は計根別の考古学者佐川さんの家、話を聞いて宿舎に戻った途端に一年部員ヘタヘタとすわり込んだ。それもその筈、その道のりザット6q、朝の散歩にはちょっと強行軍。当の大沼君御本人は、ケロッとした顔で、かけつけた三杯の朝飯がいかにもうまそう。御共した連中いわく「散歩だと言うからついて行くと、まるっきり遠足さ、これじゃまるでサギだよ。大沼さんと歩くのは真平、頭に来た!!」フウフウ言ってぼやく事、ぼやく事。

計根別地区で、本部は一行は標津川にそって移動を始めたが、畑君の班がいない。きけば24号の発掘されていた址で、夢中になって掘っているとの事。かなりの掘り残しの物があるらしい。これじゃ面白くて、親が死んでもやめられない。本部は3q程移動して竪穴の測量に取りかかったが、連中一行に来る気配がない。私は佐川さんに会うべく、自転車で北12号道路に出て、更に真っ直ぐ佐川さん宅に行ったところが、家の前で見た事のある様な高校生がうまそうに水を飲んでいる。どうやら連中道に迷って反対方向の道に入りやっとたどり着いた先が、私のおめあての家と同じだったと言う訳。ところが連中てっきり私が迎えに来たものと早合点したかどうか、大急ぎでバック、後で聞けば、本部地付近まで来て、又御丁寧に迷ったらしい。良い足の運動になったと言うものの、この辺で名誉挽回せにゃならぬとばかり、貴重な掘り出し物?を披露におよんでケリ。

「堀り学ぶ」とは郷研の事か、私の名前も万更、考古学に縁がない訳でもない。数々の貴重な発見は良い勉強になった。柳舘部長と教育長さんを訪問、ウンチクをかたむけて、中標津町遺跡の特異な先史文化について弁じたので、教育長さんも郷研の今後の活動に期待するところ大なるものがあった様だ。教育長さんは言う「貝塚らしいものがある様だ、場所は聞きもらしたが、分かり次第知らせる」とはおっしゃっても、あてにはならないが耳よりな話。この地辺は南校郷研が初めて手をつけた処女地帯だ。部員諸君も大いにやりがいがあろうと言うもの。北大の大場先生も言っておられたよ。「なかなか貴重な発見をしてくれた」とね。

編集後記

我々は、部誌編集の役についてから半年余り。我々今年は、昨年におとらぬ立派な部誌を作ろうと思った。そして遠征の事を中心にして作ろうと言う事でまず部誌のミックボーンが出来た訳だ。然し遠征から帰って来るまで少し安易に考えすぎていた様だ。然し其の事は、又後で書く事にして遠征中の事をまず一筆。我々編集の係は、僕の他に一年生が男女二名づつ居る。遠征前に我々は編集ノートを一冊作って、それに日記の様にしてその日の記事を書く事にした。然し其の記事を書くにしても大変で、一年生の広瀬君は、徹夜して第一日目皆が札幌を出発した。この日の精神状態を観察して、其の様子を記事にしたり、ある人が釣りに行くと言えば、それに同行し、眠たい目をこすりながら皆の一挙一動を記憶していて、後から其の様子を整理し、又皆の雑談にも気を配り、其の上皆と一緒に力仕事をしたり、とても苦労した。然し彼等ぐら一つこぼさないで働いてくれた。僕はこの紙上を借りて「有難当。(協力してくれた事を感謝して居ます)」と御礼を言わせてもらう。我々が札幌に帰ってきてからが又一仕事。部誌の内容又プログラム等を決め、それが決まると一人一人に記事をたのむ。そしてそれを集める。彼等のぐち一つこぼさぬ其の態度に、僕は頭が下がる思いだ。一年生は初の遠征で身心共に疲れている上に帰ってきてからは、更に精神的な面で、相当負担になった事だろう。来年はこの経験を行かして、更に良い部誌を編集してくれる事を信じます。記事を書く期間が短かった為、皆にも急いでもらったが、皆は、とても責任のあるしっかりした記事を書いて来てくれたので、今回のような立派な部誌が出来たのだと思います。然し部誌編集がこんなに困難なものと初めてしりました。この部誌は皆の研究発表と共に、団結の印として、意義のあるものになると確信致します。皆さん御協力を感謝致します。


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