給食の思い出の中で

 テレビにユニセフのコマーシャルがよく流れるのですが、その中で団塊の世代かそれよりも少し前の世代らしき人物が「自分が死んだら、遺産の中から一部をユニセフに寄付して欲しい」と娘に語っているものがあります。そのときに背景として流れる戦後の日本の子どもたちの様子、特に学校給食の場面の動画や写真がいろいろなことを思い出させてくれます。アメリカから提供された脱脂粉乳を溶いたミルクをとても美味しそうに飲んでいる子どもたちは、少しばかり世代差があるとはいえ、私の子ども時代の姿でした。あの映像の中で一番印象的なのは、ボウズ頭やオカッパ頭で質素な貧しい服装している子どもたちの笑顔です。
 私は、今も学校に出かけ子どもたちに接する機会を多く与えられています。現代の子どもたちもよく笑います。子どもはよく笑うものです。でも、現代の子どもたち以上に映像の中の半世紀以上も前の子どもたちの笑顔には心惹かれます。清々しい気持ちで自分の頬が緩んでいるのを感じるのです。
 何故なのでしょう。戦後、アメリカを手本に、誰もが食べ物に困らない物質的に豊かな社会を求めてきたのが日本の姿でした。その目標が達成されたとき、私たちは満ち足りた食べ物を残し捨てる社会の中にいることに気づきました。多くの便利な電気製品に囲まれ、誰もが自動車を持ち海外旅行にも行けるようになりました。ところが、その豊かさは決して心まで豊かにはしてくれませんでした。そして、子どもたちの笑顔にも屈託の影を見てしまうのですが……
 
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 ある本を読んでいたら、次のような文章に出会いました。
「ぼくらの街では、学校の給食費の未納問題はゼロだという。街や市民が裕福だからではない。共同体があるから、ときには死人も出る諏訪大社の御柱祭などを中心に、人と人とをつなぐネットワークが張りめぐらされている。ボランティア活動も盛んだ。雪が降れば、子どもたちの通学路を守るために市民総出で雪かきをする。今も共同体の意識があるからだと思う」
 
 諏訪市は人口5万人の街です。なぜ、中標津町では給食費の未納問題を解決することができないのでしょう。「当事者が言うことではない、お前がやらないからできないのだ」と、お叱りを受けそうです。
 ここ数年、二点で努力を続け、毎年数パーセントの改善を得ています。一つは、担当者が夜間や休日に未納家庭を戸別訪問し理解を願い、少しずつでも回収を図っていることです。もう一つは、未納家庭が本当に経済的に苦しく給食費にまで手が回らないという場合、準要保護世帯の手続きにより町から給食費を含めた学校教育にかかる多くの費用が充当されるシステムを勧めています。
 しかし、未納問題の解決のため戸別訪問をするなど、本当に担当者の努力にすがり解決するようなことでいいのか、大いに疑問を感じるところです。
 そして、次の段階として、『学校給食制度を利用し、その費用は家庭で負担しなければならない』という認識をもっていただくため、平成27年度より「学校給食申込書」の提出を義務付けました。アレルギーなど特殊な事情のある家庭を除き、全家庭から「学校給食申込書」の提出がありました。さて、この三つの取り組みにより、平成27年度の結果はどの程度改善されるのか、機会がありましたら、報告の文章も書きたいと思います。

 最後に、給食の思い出に話を戻しますと、私にとって強く記憶に残っているのはラーメンです。いつの時代であったかは忘れましたが、生ぬるい、むしろ冷たいと言ったほうがいいようなラーメンスープ(油が少し固まり白く浮いていることもあったような)に、さらに冷たく固まった麺を放ち箸でほぐして食べるのでした。これが何とも美味しいと思ったのを覚えています。今にして思えば、カレーライスとラーメン以外の給食があまりにもひどかったからでしょうか。しかし、そんな給食を毎日食べていたからといって、給食のラーメンを美味しい思いながら食べていたからといって、大人になった私が味覚異常になったとは思われません(?)。

 ふと、今やもう、給食の時代ではないのかなと思うことがあります。

 
平成27年12月  教育長  小 谷 木  透