昭和8年(中標津駅開駅は昭和9年)から平成元年まで活躍した国鉄標津線が廃止されてから今年で(平成15年現在で)14年目となりました。今回は鉄道以前に活躍した殖民軌道について紹介します。
殖民軌道は人や物資を運ぶため、主に戦前に活躍した軽便鉄道の一種で、道北や道東に敷設されました。
大正13年、日本で初めての殖民軌道が厚床〜中標津間に開通し、その後昭和36年、町内最後の軌道であった養老牛線が廃止されるまで、中標津、中標津駅、当幌、計根別37線、計根別、計根別駅、開陽、中央武佐、上武佐、養老牛に停留所がありました。ただし、鉄道の開通や太平洋戦争の影響など、時代の変化に伴って随時路線や使われる停留所が変わりました。
軌道は馬が貨車を引っ張る「馬鉄」でした。昭和4年8月からは主要な路線でガソリン機関車も用いられるようになりましたが、これも路線の変化によって再度馬鉄に戻ることもありました。
昭和5年5月8日施行の「殖民軌道旅客及貨物運送規則」では、普通旅客の賃金は1kmにつき3銭(4〜12歳までは半額)、手荷物は1人20kgまでは無料でした。
現在、軌道の痕跡は町内各所で断片的に見られるだけとなっています。