普通ということ
八月初め、合宿のため中標津町に来ている朝鮮高級学校のサッカー部と女子バスケット部の生徒さん達と話す機会がありました。
その折に、私が『将来の夢』を教えて下さいと質問したところ、返ってきた答えはほとんどが「普通に、幸せな生活をしたい」というものでした。周囲にいた大人達から「えー」という小さな声と笑い声が上がりました。もちろん、ばかにした笑い声ではなく、「えー、そうなんだ」という驚きを表す笑いでしたが、生徒の方は、至って真面目に答えていたのでした。
その折に、私が『将来の夢』を教えて下さいと質問したところ、返ってきた答えはほとんどが「普通に、幸せな生活をしたい」というものでした。周囲にいた大人達から「えー」という小さな声と笑い声が上がりました。もちろん、ばかにした笑い声ではなく、「えー、そうなんだ」という驚きを表す笑いでしたが、生徒の方は、至って真面目に答えていたのでした。
『普通の幸せな生活』という言葉が、暫く頭から離れませんでした。それから数日後、もう一度、懇親会の席でお話をする機会があり、私は「あの時は、少し驚 きましたが、考えてみると『普通に幸せな生活を手に入れること』は、そんなに簡単なことではありません。皆さんが、将来普通に幸せな生活を手に入れること を心から祈っています。頑張って下さい」と話しました。
普通であることの難しさ、大変さと言う と、何を言っているのかと思われる方もいると思います。プラスもマイナスも『ほどほど』、あるいは『可もなく不可もなく』という言い方もあります。そんな 生き方のどこがいいんだという声が聞こえてくるようです。しかし、私たちにとって、大きなプラスというのはなかなか得られるものではありませんが、大きな マイナスというのは、誰にとってもこれから歩いていく先に待ち受けている可能性が十分にあります。そういう意味では、ほどほどに普通に生きるというのは、 なかなか難しいのではないでしょうか。
普通であることの難しさ、大変さと言う と、何を言っているのかと思われる方もいると思います。プラスもマイナスも『ほどほど』、あるいは『可もなく不可もなく』という言い方もあります。そんな 生き方のどこがいいんだという声が聞こえてくるようです。しかし、私たちにとって、大きなプラスというのはなかなか得られるものではありませんが、大きな マイナスというのは、誰にとってもこれから歩いていく先に待ち受けている可能性が十分にあります。そういう意味では、ほどほどに普通に生きるというのは、 なかなか難しいのではないでしょうか。
たとえ話になるかどうか自信はないのですが、「楕円形を描いて下さい」と言われ、簡単に描ける人はそんなにいないと思います。しかし、「円を描いて下さい」あるいは「直線を描いて下さい」と言われれば、ほとんどの人が何とか描けるのではないでしょうか。
楕円形には支点が二つあります。二つの支点が無限に近づき円になり、無限に離れて直線になります。(無限にですから、円そのもの直線そのものではありませんが……)このことから、円も直線も楕円の特殊な形と考えられます。特殊なものは描きやすくても、円と直線との間にある無数の楕円を描くのは案外難しいのではないでしょうか。普通の人の普通の人生は、円と直線との間にある少しずつ違う無数の楕円であり、その中の一つである自分の楕円を描くことではないでしょうか。ただ、これはなかなか難しいことのようです。
私は、十代の終わりから二十代の初めころ、坂口安吾という小説家の文章を読んでいる時期がありました。彼は『堕落論』という評論文の中で、「世間の評価を気にせず、世間や社会に堕落と非難されることがあっても、自分の信ずる処を行ないなさい」と語っています。そのころの私は宝物を手に入れたように、この言葉を大切に思っていました。若かった私自身が持っていた、世間が何だ、社会が何だという気持ちと符合したのでしょう。ですから、坂口安吾の言うとおりに生きようと自分でも思い、友と語らってもいました。
しかし、私は、坂口安吾のように、彼が言うように自分の信ずることに正直には生きてきませんでした。ですから、私は彼のように薬物中毒になり、競輪にのめり込むなど破滅的な人生を歩むことはありませんでした。
今でも、自分に正直に生きることは素晴らしいと思います。出来れば、そうやって人生をやり直してみたいと思うこともあります。
でも、何時からか、自分自身や自分の関わること、そして他人と、次々に妥協しながら生きることも、本当に生きていることだと思うようになりました。庶民の生き方とはそういうものではないかと、思うようになりました。もしかしたら、これが私にとって、世間の評価を気にせず、世間や社会に堕落と非難されることがあっても、自分の信ずる生き方そのものだったのかもしれません。
こんなことに思いを巡らすと、朝鮮高級学校の若者たちの「普通に、幸せな生活をしたい」という言葉は、私が数十年で手に入れたことを十代で既に手に入れているということなのだろうかと、一人感心し、沈黙してしまうのでした。
私は、十代の終わりから二十代の初めころ、坂口安吾という小説家の文章を読んでいる時期がありました。彼は『堕落論』という評論文の中で、「世間の評価を気にせず、世間や社会に堕落と非難されることがあっても、自分の信ずる処を行ないなさい」と語っています。そのころの私は宝物を手に入れたように、この言葉を大切に思っていました。若かった私自身が持っていた、世間が何だ、社会が何だという気持ちと符合したのでしょう。ですから、坂口安吾の言うとおりに生きようと自分でも思い、友と語らってもいました。
しかし、私は、坂口安吾のように、彼が言うように自分の信ずることに正直には生きてきませんでした。ですから、私は彼のように薬物中毒になり、競輪にのめり込むなど破滅的な人生を歩むことはありませんでした。
今でも、自分に正直に生きることは素晴らしいと思います。出来れば、そうやって人生をやり直してみたいと思うこともあります。
でも、何時からか、自分自身や自分の関わること、そして他人と、次々に妥協しながら生きることも、本当に生きていることだと思うようになりました。庶民の生き方とはそういうものではないかと、思うようになりました。もしかしたら、これが私にとって、世間の評価を気にせず、世間や社会に堕落と非難されることがあっても、自分の信ずる生き方そのものだったのかもしれません。
こんなことに思いを巡らすと、朝鮮高級学校の若者たちの「普通に、幸せな生活をしたい」という言葉は、私が数十年で手に入れたことを十代で既に手に入れているということなのだろうかと、一人感心し、沈黙してしまうのでした。
平成22年8月 教育長
小 谷 木 透
小 谷 木 透
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中標津町 電話番号:0153-73-3111FAX:0153-73-5333
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