青春時代(便所コオロギの日々)

 数ヶ月、何も書いていませんでした。何度も書き始めながら終わりまで行くことなく、途中放棄が続いていました。実は、昨年ある雑誌から依頼され、つまらない文章を書いたのですが、きちんと雑誌に載せたのかどうか礼も挨拶もいただけなかったもので(余りにもつまらない文章だったからかもしれませんが……)、今回、その文章を載せさせていただきます。
 
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 四月初旬、各学校で入学式が行われていた頃、テレビのニュースで東京の私立大学の入学式を放映していました。千代田区にある日本武道館が会場でしたが、一階に新入生が数千人、二階席・三階席に新入生の親であろう人達がその倍の数いらっしゃったそうです。

 その後、今時の大学の新学期ということで、説明会の会場が映りましたが、何と単位取得についての説明を聞いているのは多数の新入生の親でした。そして、ある親からの「うちの子は引っ込み思案ですので、ぜひ細かく配慮してください。そうしないと学校に行けなくなるかもしれません」という言葉を耳にした時、私は頭のテッペンから湯気が吹き出してくるような気分でした。
 そんな興奮の中で、ふと、自分の青春時代のひとコマを思い出しました。
 私は学生時代の一時期、東京に出てきた姉とアパートの部屋を借りて生活していました。二年ほど同居しての後に、喧嘩をしたわけでも大きな事件があったわけでもなかったのですが、別々に暮らすことになりました。今思うと、お互いに、好きな人ができて多少の気まずさがあったことが原因だったかもしれません。
 私は学生でしたので、できるだけ家賃の安い部屋を探しました。不動産屋を何軒か回り、やっと三畳一間で八千円という部屋を見つけました。三畳の畳の部分の他に半間の押入れ、そして小さな流しという具合でした。トイレは共同で屋外にありました。
 何しろ、一年後には取り壊されるというアパートのせいか、二階の三部屋は空き室でした。一階も、私の他に一人入っているだけでした。その一人は私よりは年上で、二十代の男性。社会人のようでしたが、仕事は何をしているのか知る機会はありませんでした。
 ある夜、部屋を出、突き当たりにあるトイレに向かいました。トイレは裸電球一つの明かりでしたが、用を足すにはもちろんそれで充分でした。明かりをつけドアを開けると何かが動きました。ドキリとしたのですが、そのまましゃがみました。見るとコオロギのような虫が一匹いました。「あっ、コオロギだ」と声に出さずに思ったのですが、何とそのコオロギには羽がありません。羽はありませんが、どう見てもコオロギです。私は用を足すと、トイレの明かりはつけたままで、ほとんど話したことのない隣の住人の部屋の戸をノックしました。「どうしたんですか」という声が思いのほか明るいのでほっとし、「すみませんが、ちょっと来てください」とトイレまで連れて行き、コオロギを見てもらいました。私の不安そうな「これ、なんでしょうね」という質問に、またも明るい声で「便所コオロギですよ」と答えてくれました。彼の答えがあまりにもあっけなかったので、私は「ああ、やはりコオロギですか」とうなずくばかりで、後は何も言えませんでした。もちろん、「コオロギなのに、どうして羽がないんですか」とは訊けませんでした。
 私は、このアパートに十ヶ月ほど暮らしました。羽がなく鳴けないコオロギに出会うことは何度もありましたが、彼と話したのはこの一度だけでした。
 また、こんなこともありました。
アパートは土手の陰のような位置にあり、日当たりも悪く、夏には時々窓や戸を開け空気の入れ替えをしないとかび臭くなるのでした。
 夏のある日、風一つないとても天気の良い日でしたので、敷蒲団のマットレスを、近くを流れる善福寺川の柵に干して出かけました。ところが、帰ってみるとマットレスはなくなっていました。探して歩き、二百メートルほど下流で川面に浮いているのを見つけたのですが、とても川から引き上げるという状態ではなかったので、あきらめました。「ああ、また、ものが一つ減ったな」と思いました。
 電話もない、テレビもない、冷蔵庫もない、もちろんお金もない、何もない私の青春時代でした。ただ、私の中には、私がびっしりと詰まっているばかりでした。
平成23年2月 教育長
 小 谷 木  透