昔話(私も若かった)

 以前、ある冊子に「三十年の歳月」というタイトルで書いたのですが、手直しし、書きたいと思います。私は十代の終わりから二十代の後半にかけて東京で暮らしていました。
 
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 十九歳の年でした。私は、二度目の大学受験にも失敗し、東京で浪人二年目を過ごしていました。試験を受けてまでして入った予備校ではありましたが、ほとんど欠席の状態でした。その予備校で紹介していただいた、保谷市にある木造二階建ての建物が三棟あり、四十数名の浪人生が入っていた下宿に暮らしていました。

 部屋は三畳一間と、今では考えられない広さですが、持ち物といって特に何かあったわけではないので、不都合は感じませんでした。それでも、古道具屋から机を一つ買い、寒くなるころには炬燵を一つ買ってきました。三畳間では机を置いて布団を敷くと、それだけで部屋いっぱいになりました。炬燵を置くときには布団をたたむのですが、だんだんと布団の上に炬燵を置いて暮らすようになりました。
 たった一年間の、下宿での生活でしたが、その一年間で私は生涯の友を数人得ることができました。ただ、現在では音信不通の友もおりますが……。

 数多い下宿人のほとんどは一浪でした。基本的に一年単位でしか下宿させないということで、つまり二浪以上はいないという建前でした。しかし、付き合ってみると、二浪が二人いました。私を含めて三人でした。
 一人はT君といい、四浪の末に明治大学文学部フランス文学科に入学しましたが、麻雀にのめり込み、新宿の雀荘でアルバイトをするようになり、その内に連絡が取れなくなりました。後日、どこからともなく大学をやめたという噂が伝わってきました。
 二人目もT君といいました。彼は三浪し、青山学院大学理学部に入学しました。ギターがとても上手で『アルハンブラの思い出』を、よく聞かせてもらいました。ところが、彼も麻雀に近づき過ぎ、いつの間にか所在が分からなくなり、大学もやめたようでした。数年後、群馬県の実家を訪ねてみましたが、実家にも連絡はないとのことでした。
 ここまでが、『二浪S(ニローズ)』の二人ですが、次は私と兄弟になってしまった男の話です。彼は何故だか本名では呼ばれず、出身地の『登別』に因み『ノボリベツ』という名で呼ばれていました。その下宿を出た二年後、私は同じく東京に出てきた一つ上の姉とアパート暮らしをするようになっていました。彼はよく遊びに来ましたが、あるとき、私の姉と結婚すると言い出しました。現在も、姉と二人の子の四人暮らしで東京におります。私は、彼と会うと、今でも『ノボリベツ』と呼びかけます。『ノボリベツ』の結婚式は登別で行ないましたが、当然、私は出席しました。
 この当時の友で、もう一人、私が結婚式に出席し友人代表の挨拶をした男がいます。彼もT君といいましたが、私たちの多くが入学の目標としていた大学、早稲田大学政経学部に入学し、卒業しました。大学院に進もうか迷った末に、北海道に来て『イカ釣り船』に乗りましたが、その後、東京の出版社に勤めました。
 
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 この時から三十年後、私は根室管内の中学校で教頭として勤務していました。
 私は、大学卒業までの学生時代に、学校の先生になろうと思ったことは一度もありませんでした。ですから、大学でも教職の単位は取得せず、卒業時にも教員免許は持っておりませんでした。そんな私が中学校の国語教師になったのには、ある経緯がありました。

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 私は、大学卒業後、東京で、今で言うフリーターのような生活をしていましたが、父の勤めていた会社が倒産し、退職金もないまま父のサラリーマン生活が終わってしまったことをきっかけに、実家のある釧路市に戻りました。しかし、教員免許どころか自動車の運転免許も持っていなかった私に、仕事はありませんで した。
 それでも、知っている人の口利きで、市立図書館の臨時職員として雇ってもらうことができました。二十七歳の春でした。
 臨時職員の給料は安く、正職員の方にお酒をご馳走になり、末広町にも時々顔を出していました。また、少ない小遣いを麻雀の授業料に払ったりもしていました。
 ある時、貸し出しカウンターの業務をしていると、突然、私の名前が呼ばれました。顔を上げると、高校時代の同級生K君でした。彼は、東京教育大学(現在の筑波大学)の大学院を卒業したのですが、なぜか教員免許を持っていないので、通信教育で免許を取得しようとしているとのことでした。何度か会って話しているうちに、一緒に勉強しないかと誘われました。
 勉強は自学自習でしたが、仲間は十人ほどいました。月一回の例会を喫茶店で開き、励ましあっていました。私やK君のように教員の免許取得を目指している者もいれば、大学卒業の資格取得が目標の者もいました。また、単に自分の教養のためということであったり、勉強することそのものに意義を見出している者もいました。職業も、民間企業、市役所、警察署、自衛隊と様々でした。レポートに追われながらも、仲間で温泉に行ったり、真夏の東京にスクーリングに出かけたりと、楽しいこともありました。また、K君はその時の仲間の女性と結婚し、目指していた高校の教員も既に退職し、函館で仕合わせに暮らしています。
 私は、通信教育二年で単位を取得し、教員免許を取得することができましたが、採用試験には落ちてしまいました。二度目の試験で合格し、昭和五十八年四月、別海町立中春別中学校に勤務することになり、私の教員生活がスタートしました。三十一歳の春でした。
 
平成24年10月 教育長
 小 谷 木  透