テレビよ、がんばれ

 師走も押し詰まり、12月に衆議院議員選挙がありました。結果、民主党から自民党へと政権の交代がありました。この場で政治的な話をするつもりはありませんが、1975年8月に、小説家の開高健が次のようなことを書いています。
 「南ベトナムの農民の意識そのものはどうかと聞かれた場合に、わたしの見聞の範囲で答えれば……」と前置きし、

一つ、悪い政治は憎むべきものである。
二つ、よい政治はいいものである。
三つ、もっといいのは政府のないことである。
四つ、毎日の生活についてお上からとやかくいわれたくない。
五つ、お上は顔が変わるだけのことだ。

 さて、ベトナム戦争は1975年4月30日に終結しましたが、ベトナム戦争中の農民の意識と現代日本に暮らす私たちの意識を比べてみると、「一」「二」は当然です。「五」は、今回の投票時に感じた方も多かったのではないでしょうか。「四」は差し詰め、私たちにとっての『節電』でしょうか。「三」は、う~~~む……。
 
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 
 さて、さて、今年は天候の異常さ、凶暴さの目立った一年でしたが、最後の最後、雪の多さも寒さの厳しさも一段と辛く感じられるのですが、いかがですか。
 開高健の文章からもう一つ。「笑い」について書いています。
 「無償で、自然で、人をくつろがせ、血をわきたたせながら聡明の高さへとび、一晩や二晩ではきえることがないという笑いがないものだろうか。知性の発作や、けいれんとしての、つまり断片としての笑いは紙からもフィルムからもよくうけとるが、それらはガラスのように砕けるか、泥舟のようにとけてしまうか、けっして私を安堵して笑わせてくれるということがない。つまりそれらは使い捨て品としての笑いであって、瞬間の刺激であるにすぎず、私は一匹の回虫がピクッとするように笑い、反射するにすぎないのである。現代であたえられる笑いはたいてい類別すれば、発作、けいれん、くすぐり、しゃっくりであって、回 想されるたびに新しく細胞分裂して繁殖するという性質のものではない」


 私自身は、「笑い」に開高健ほどの「聡明の高さ」を求めてはいないのですが、それにしてもテレビの番組欄を眺めているとうんざりさせられます。なぜ、数ある放送局のほとんどが、あれ程の時間を費やしてあのような番組を制作し、放送しているのか。なぜ、「使い捨て品」や「瞬間の刺激」があれ程たくさん放送されなければならないのか。子ども達が発現している問題に大きく関わり、大人たちの生活に多大な影響を及ぼしているだろうこのことが、どうしてもっと話題に、問題にならないのだろうか。

 聞こえてきます。「それなら、おまえはテレビを観なければいい。それで済むではないか」全くその通りです。だから、私はできるだけそのような番組は観ないようにしています。もちろん、観たい人に観るなと言うつもりはありません。
 それにつけても、年末から正月にかけて私とテレビの間には憂鬱な日々が続きます。恋愛小説でも読んで、あとは布団の中で寝正月……
 
平成24年12月 教育長
 小 谷 木  透