問いと答えの間で
平成27年3月18日更新
3月3日、ひな祭りの日の朝、前日の大雪のため徒歩出勤の連絡が入り、7時30分過ぎに家を出て歩き始めました。
歩道も一応除雪されているのですが、普段鍛えていない足腰では、あっちにフラフラこっちにフラフラ、前にツルリ後ろにツルリ、何時になったら職場に着くのか?ふと立ち止まって左右を眺めると雪のトンネル状態。車の走っている道路は全然見えず、反対側の家屋も見えない、雪の高さは私の身長(177cm)をはるかに超えているではないか、そんなことに気づいた瞬間の私のにやけた顔を想像できますか。
子どもの頃を思い出しました。雪山に穴を掘りかまくらのようなものを作ったり、穴を貫通させトンネルを作ったり、時には穴を下に掘り、枯れ枝を並べ雪をかぶせ落とし穴を作ったりしました。大きな雪山に登り、滑り降りて遊んだりもしました。私の子ども時代は今年の中標津のように雪が多かった。そう思うのですが、もしかしたら子どもであった私にとっては周りのすべてが大きくて多かったのかもしれません。
子ども時代から我に返った瞬間つるりと滑り、転びはしなかったのですがしゃがみ込んでしまいました。見上げると雪の壁の間の空は久しぶりの青空、春が近いことを感じさせる薄い青色の温かい風に、その場にそのままずっとしゃがみ込み、出勤しないことにしようかと思ったのでした。
連日の大雪、毎週の暴風雪は、一体私たちに何を問いかけたのでしょうか。いや、「私たちに」ではなく「私に」と言うべきでしょうか。確かに多くの人が被害をこうむっていますが、これは「私」という人称で受けとめ考えるべきことなのかもしれません。
私が問われていること……、少々シリアス過ぎますね。
ちょうど毎週末の暴風雪の頃、トイレに置いて読んでいたのが、村上春樹という人の『セロニアス・モンクのいた風景』という本でした。モンクの影響を受けたジャズメンはたくさんいたそうですが、私がかつてよく聴いていたのがその中の一人ダラー・ブランドという人のピアノ曲でした。本物の音痴を自称している私は、当然のごとく音楽には疎く、またジャズにも疎いのですが、学生時代の流行とでもいうのかジャズ喫茶にはよく行きました。当時、私は東京の荻窪に住んでいましたが、そこにあった『グッドマン』という店に行きました。休みに釧路の実家に帰ると『ジスイズ』に行きました。また、東京と釧路の間で一休みするときには、札幌で『B♭』に行きました。それらしく俯きながら、コーヒーやジン・トニックを舐め舐め、数時間を過ごしたものでした。音痴の私がダラー・ブランドという人の曲になぜ魅かれたのかというと、特に代表作である『アフリカン・ピアノ』という曲なのですが、どこまでも同じ曲想が続きます。どこまでもどこまでも続くのですが、それが徐々に昂揚し、ある時点でストンと落下するのです。その心地よさに魅かれたのだと思います。
実は、本題はジャズではないのです。『セロニアス・モンクのいた風景』を読み終え、現在のトイレ読書は鷲田清一という人の『哲学の使い方』という本なのです。もう、終わりの方まできているのですが、気になった箇所のページの上を小さく三角に折っています。それが既に14か所になっているのですが、私は記憶力が悪いため何か印をつけておかないと、どんなに晴らしい言葉もヒントとなる示唆も、次々と記憶のかなたに飛び去ってしまうのです。
この本から得たヒントがあります。それは、引用してみると「問題を複眼で見ること、いくつもの異なる視点から問題を照射する」「問いの発見、問いの更新」「問いの書き換え」というような言葉になるでしょうか。つまり、「答え」が重要なのではなく「問い」こそが重要だということです。私が中学生の頃、学校で行われるテストで数学の難しい問題にぶつかり何としても解けないとき、先生に「これは問題が悪いんではないですか?」と言ったことがあります。もちろん、そのときは、いきなり大きな木製の三角定規で頭を叩かれましたが、問題が悪い場合には答えに行き着くのが大変だということが、実態としてはあるのではないでしょうか。
つまり、こんなことを考えたのです。「全国学力テストの結果、低いと言われる中標津町の子どもたちの学力を向上させるのにはどうしたらよいのか?」という「問い」をじっと見つめ続けるのではなく、「なぜ、学力が低いのか、その原因は?」「子どもたち全員が低いのだろうか?」「教師の力量が低いのだろうか?」「家庭の学習環境は整っているのか?」「教育に対する社会投資は充分か?」、さらに「学力が低いというのは本当だろうか?」「平均点の比較にはどんな意味があるのだろう?」「そもそも、学力とは何か?」と「問い」は増え、書き換えられていく。
私たちは、常にたくさんの課題解決を迫られ、解決への道筋を探し求めています。何とか、答えに、解決にたどり着こうと努力をしているのですが、「答え」を求めるあまり「問い」への思いが失われてしまいがちになるのではないでしょうか。私たちが抱えている課題の本質は何なのか、考えてみたくなりませんか?……
3月3日、ひな祭りの日の朝、前日の大雪のため徒歩出勤の連絡が入り、7時30分過ぎに家を出て歩き始めました。
歩道も一応除雪されているのですが、普段鍛えていない足腰では、あっちにフラフラこっちにフラフラ、前にツルリ後ろにツルリ、何時になったら職場に着くのか?ふと立ち止まって左右を眺めると雪のトンネル状態。車の走っている道路は全然見えず、反対側の家屋も見えない、雪の高さは私の身長(177cm)をはるかに超えているではないか、そんなことに気づいた瞬間の私のにやけた顔を想像できますか。
子どもの頃を思い出しました。雪山に穴を掘りかまくらのようなものを作ったり、穴を貫通させトンネルを作ったり、時には穴を下に掘り、枯れ枝を並べ雪をかぶせ落とし穴を作ったりしました。大きな雪山に登り、滑り降りて遊んだりもしました。私の子ども時代は今年の中標津のように雪が多かった。そう思うのですが、もしかしたら子どもであった私にとっては周りのすべてが大きくて多かったのかもしれません。
子ども時代から我に返った瞬間つるりと滑り、転びはしなかったのですがしゃがみ込んでしまいました。見上げると雪の壁の間の空は久しぶりの青空、春が近いことを感じさせる薄い青色の温かい風に、その場にそのままずっとしゃがみ込み、出勤しないことにしようかと思ったのでした。
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連日の大雪、毎週の暴風雪は、一体私たちに何を問いかけたのでしょうか。いや、「私たちに」ではなく「私に」と言うべきでしょうか。確かに多くの人が被害をこうむっていますが、これは「私」という人称で受けとめ考えるべきことなのかもしれません。
私が問われていること……、少々シリアス過ぎますね。
ちょうど毎週末の暴風雪の頃、トイレに置いて読んでいたのが、村上春樹という人の『セロニアス・モンクのいた風景』という本でした。モンクの影響を受けたジャズメンはたくさんいたそうですが、私がかつてよく聴いていたのがその中の一人ダラー・ブランドという人のピアノ曲でした。本物の音痴を自称している私は、当然のごとく音楽には疎く、またジャズにも疎いのですが、学生時代の流行とでもいうのかジャズ喫茶にはよく行きました。当時、私は東京の荻窪に住んでいましたが、そこにあった『グッドマン』という店に行きました。休みに釧路の実家に帰ると『ジスイズ』に行きました。また、東京と釧路の間で一休みするときには、札幌で『B♭』に行きました。それらしく俯きながら、コーヒーやジン・トニックを舐め舐め、数時間を過ごしたものでした。音痴の私がダラー・ブランドという人の曲になぜ魅かれたのかというと、特に代表作である『アフリカン・ピアノ』という曲なのですが、どこまでも同じ曲想が続きます。どこまでもどこまでも続くのですが、それが徐々に昂揚し、ある時点でストンと落下するのです。その心地よさに魅かれたのだと思います。
実は、本題はジャズではないのです。『セロニアス・モンクのいた風景』を読み終え、現在のトイレ読書は鷲田清一という人の『哲学の使い方』という本なのです。もう、終わりの方まできているのですが、気になった箇所のページの上を小さく三角に折っています。それが既に14か所になっているのですが、私は記憶力が悪いため何か印をつけておかないと、どんなに晴らしい言葉もヒントとなる示唆も、次々と記憶のかなたに飛び去ってしまうのです。
この本から得たヒントがあります。それは、引用してみると「問題を複眼で見ること、いくつもの異なる視点から問題を照射する」「問いの発見、問いの更新」「問いの書き換え」というような言葉になるでしょうか。つまり、「答え」が重要なのではなく「問い」こそが重要だということです。私が中学生の頃、学校で行われるテストで数学の難しい問題にぶつかり何としても解けないとき、先生に「これは問題が悪いんではないですか?」と言ったことがあります。もちろん、そのときは、いきなり大きな木製の三角定規で頭を叩かれましたが、問題が悪い場合には答えに行き着くのが大変だということが、実態としてはあるのではないでしょうか。
つまり、こんなことを考えたのです。「全国学力テストの結果、低いと言われる中標津町の子どもたちの学力を向上させるのにはどうしたらよいのか?」という「問い」をじっと見つめ続けるのではなく、「なぜ、学力が低いのか、その原因は?」「子どもたち全員が低いのだろうか?」「教師の力量が低いのだろうか?」「家庭の学習環境は整っているのか?」「教育に対する社会投資は充分か?」、さらに「学力が低いというのは本当だろうか?」「平均点の比較にはどんな意味があるのだろう?」「そもそも、学力とは何か?」と「問い」は増え、書き換えられていく。
私たちは、常にたくさんの課題解決を迫られ、解決への道筋を探し求めています。何とか、答えに、解決にたどり着こうと努力をしているのですが、「答え」を求めるあまり「問い」への思いが失われてしまいがちになるのではないでしょうか。私たちが抱えている課題の本質は何なのか、考えてみたくなりませんか?……
平成27年3月 教育長
小 谷 木 透
小 谷 木 透
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中標津町 電話番号:0153-73-3111FAX:0153-73-5333
中標津町 電話番号:0153-73-3111FAX:0153-73-5333