人の心はどこにあるのか

◇人の心はどこにあるのか◇
 
 先日、人間ドックを受診しました。血圧測定に始まり胃カメラで終了したのですが、最後に医師の診察といいますか判定宣告といいますか、結果についての説明をしていただきました。
 その直前、椅子に座り名前を呼ばれるのを待っているとき、私は嫌な予感がしました。
 一昨年も昨年も人間ドックを受診したのですが、毎年のように血圧、コレステロール、中性脂肪、血糖値の数値が高いと言われ続けていたのです。昨年は、さらに便に潜血があり、後日大腸カメラの検査を受けなさいと言われていたのです。
 しかし、しかし、一年という月日が過ぎ、大腸カメラによる検査は受けていなかった上に、昨年と比べ体重は2kg増えての受診でした。
 もしも、同じ医師の判定となったなら、何と言われるだろうか。私は震え上がって名前を呼ばれるのを待っていたのです。
 「検査はすればいいというものではない」という言葉とともに、数値を一つ一つ比較確認され、私はひたすら「はい」「はい」「そうです」「はい」と返事をしました。そして、「必ず内科を受診しなさい」という最後通牒に「はい、分かりました」と神妙に答えるしか術がありませんでした。
もちろん、昨年と同じ先生の判定でした。
 
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 医師の話に緊張感を持って「はい」「はい」と答えながら、私は頭の片隅で「あれ!心はどこにあったのだったろうか?」と、現実逃避のようなことを考えていました。
 ずいぶんと昔、十代の終わり頃だったでしょうか。あるとき、数人の仲間と『人の心はどこにあるのか』について議論したことがありました。
 そのときの結論は『人の心は胃袋の中にある』というものでした。人は空腹のときは怒りやすくなり、満腹の状態では比較的寛容になるものです。さらに、困難に立ち向かい悩み苦しんでいるとき、胃が痛くなるものです。若かった私たちにとって、心は喜怒哀楽そのものでした。『頭の中にある』『心臓の中にある』と言っていた者も、『胃袋の中にある』という考えに異論を唱えなくなるのに、そんなに時間はかかりませんでした。
 きっと、お酒を飲みながら何かを食べながらの議論であったので寛容になっていたのかもしれません。
 それから何十年と年齢を重ね、変な話ですが、手術で胃を摘出した何人もの方に出会い、この人たちの『心』は……と思うことで、若き日の結論に反し『心は胃袋の中にはない』と私一人での結論を得るにいたりました。さて、それでは人の心はどこにあるのか。
それまで信じていた真理が覆った以上、新たな真理を探さなければなりません。
『心はどこに』
 心は、考えることとどのように関わり、感じることとどのように関わるのか、つまり『心は頭の中にある』という可能性があるのでしょうか。『頭が痛い』『頭に来る』『頭を抱える』『頭が上がらない』また、私たちの生命の証である心臓は左胸にあります。
そして、『心肺』と言われるように、その心臓と強い絆で結ばれている肺は胸にあります。 
 では、『心は胸の中にある』のでしょうか。『胸が裂ける』『胸騒ぎ』『胸がすく』『胸がつぶれる』『胸をうたれる』『胸を弾ませる』

吉野弘さんに『身も心も』という詩があります。
 
身体は/心と一緒なので/心のゆくところについてゆく。
心が 愛する人にゆくとき/身体も 愛する人にゆく。/身も心も。
(……中略……)
心は/身体と一緒なので/身体のゆくところについてゆく。
身体が 愛する人にゆくとき/心も 愛する人にゆく。
身も心も?
 
 さて、最後の『身も心も』に『?』が付いているのが気になるところですが、身体と心が一体であるとしたら、『心は身体のそこら中にある』ということになるのでしょうか。『心』というものが精神と感情の世界であるとするなら、精神は頭の中で形作られ、感情は胸の辺りにほとばしるものかもしれません。そして、もしかしたら足の裏にも心はあるのかもしれません。
 
 こんなことを考えていると、人間ドックでの数値の高さも、いっとき忘れることができるような気がします。


                              平成28年1月   教育長    小  谷  木   透