第37回 あなろぐ人間の独り言
昨年8月の「青空本の広場」において、40円で購入した桂文珍『落語的ニツポンのすすめ』という文庫本を、例によってトイレで読み始めました。いきなり面白い話でしたので、ご紹介しておきます。桂文珍の弟子に楽珍という徳之島出身の方がいるそうですが、その方のお話です。
彼が、アパートで女性と住むようになりました。芸に目ざめる前に異性に目ざめたのです。いわゆる同棲というやつです。それをダメなんていう無粋な私ではありませんから、知らぬふりをしていましたが、ある日、彼の故郷からご両親が突然彼のアパートを訪ねてこられたのです。
前ぶれもなく訪ねて、子供の喜ぶ顔が見たいという親心……。でも、彼はそんなことはつゆ知らず、彼女と部屋にいました。コンコン!とドアをたたく音。「居るか?」「あっ、父ちゃん母ちゃん」「元気か……あれま、このお嬢さんは?」いや、楽珍は慌てたのなんの、そして彼は言いました。「ウー、妹!」
桂文珍という落語家は、私の大好きな落語家です。かつて、テレビで『老婆の休日』という噺を聴いたのですが、直ぐにCDを買いに行きました。何度聴いたことか、CDが擦り切れるほど(CDが擦り切れるものなのかどうかは知りませんが)聴いたものでした。もちろん、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』に引っかけたタイトルです。年寄りを笑いものにするなとおっしゃる向きもあるかと思いますが、ぜひ聴いていただきたい。笑えます。
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若い頃には気にならなかった「時の流れ」が気になって気になって、どう頭の中を整理していいのか分からなくなることがあります。大きさの感覚、広さの感覚、そして時間の感覚というものは年齢や時代によって変わってきます。
あれほど無限にあった時間、早く時間がたってほしい、早く大人になりたい、そう思っても時間はなかなか進んでくれなかった子ども時代。自分の生活している界隈を一歩出ると、そこは不思議の国、どこに繋がっているのか分からない道、見たこともない家。あんなにも大きいと思っていた街、そして建物、ところが……。小学生にとって高校生が、高校生にとって社会人が……、若い頃には60歳の人を老人、姥捨て山の世界の人だと思っていました。それなのに、今や私が64歳……。
ところで、デジタルとアナログという単語を耳にすると、私の頭の中には直ぐに時計の図が浮かび上がってきます。もちろん私はアナログ人間ですから、アナログの時計を使っているのですが、別にデジタルの時計で生活ができないというわけではありません。では、デジタルとアナログ何が違うのでしょうか。私は科学者でも理系でもなく、また私としては理解し難い世界なので、どうも感覚的な思考になってしまうのですが……、デジタルはその瞬間の時間を止まった時間として視覚的に正確に伝えてくれます。アナログも時間を視覚的に正確に伝えてくれますが、長針あるいは秒針が動いているという意味では、時間が動いている(時が流れている)ことを自覚させられます。それは、現在が過去と未来につながっている感覚を与えてくれる、と言ったら情緒的すぎるでしょうか。
短針と長針による午後5時という時間は終業時間まで残り15分、昼食休みが終わり午後1時に仕事が始まってから4時間が過ぎたことを思わされます。さらに、昼食休みには、妻の作ってくれた美味しい弁当を食べたことまでも思い出されます。
それに比較し、デジタルの時計で午後5時を知った場合には、終業時間まで残り15分だな、というところで思考もストップするような気がするのですが、こんなことは私だけのつまらない錯覚なのでしょうか。
カレンダーが、一般的にはひと月単位で表現され、数字が並んでいるのを見るのはアナログの世界のような気がします。一週間という生活の単位も、日曜日は楽しい休日であり、次の日はブルーマンデー。また、今日という日を前日(昨日)や次の日(明日)と繋がって意識することができるという点では、やはりひと月も一週間も時が流れていることを感じさせてくれます。
流れる時間というものを私の頭は整理できないのですが、それでもやはり、私は、時間は流れていてほしいと思うのです。馬齢を重ねて64歳までたどり着いた私の自立できない心の願いです。
「……」の多い、とりとめのないことばかりを書いてしまいました。
彼が、アパートで女性と住むようになりました。芸に目ざめる前に異性に目ざめたのです。いわゆる同棲というやつです。それをダメなんていう無粋な私ではありませんから、知らぬふりをしていましたが、ある日、彼の故郷からご両親が突然彼のアパートを訪ねてこられたのです。
前ぶれもなく訪ねて、子供の喜ぶ顔が見たいという親心……。でも、彼はそんなことはつゆ知らず、彼女と部屋にいました。コンコン!とドアをたたく音。「居るか?」「あっ、父ちゃん母ちゃん」「元気か……あれま、このお嬢さんは?」いや、楽珍は慌てたのなんの、そして彼は言いました。「ウー、妹!」
桂文珍という落語家は、私の大好きな落語家です。かつて、テレビで『老婆の休日』という噺を聴いたのですが、直ぐにCDを買いに行きました。何度聴いたことか、CDが擦り切れるほど(CDが擦り切れるものなのかどうかは知りませんが)聴いたものでした。もちろん、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』に引っかけたタイトルです。年寄りを笑いものにするなとおっしゃる向きもあるかと思いますが、ぜひ聴いていただきたい。笑えます。
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若い頃には気にならなかった「時の流れ」が気になって気になって、どう頭の中を整理していいのか分からなくなることがあります。大きさの感覚、広さの感覚、そして時間の感覚というものは年齢や時代によって変わってきます。
あれほど無限にあった時間、早く時間がたってほしい、早く大人になりたい、そう思っても時間はなかなか進んでくれなかった子ども時代。自分の生活している界隈を一歩出ると、そこは不思議の国、どこに繋がっているのか分からない道、見たこともない家。あんなにも大きいと思っていた街、そして建物、ところが……。小学生にとって高校生が、高校生にとって社会人が……、若い頃には60歳の人を老人、姥捨て山の世界の人だと思っていました。それなのに、今や私が64歳……。
ところで、デジタルとアナログという単語を耳にすると、私の頭の中には直ぐに時計の図が浮かび上がってきます。もちろん私はアナログ人間ですから、アナログの時計を使っているのですが、別にデジタルの時計で生活ができないというわけではありません。では、デジタルとアナログ何が違うのでしょうか。私は科学者でも理系でもなく、また私としては理解し難い世界なので、どうも感覚的な思考になってしまうのですが……、デジタルはその瞬間の時間を止まった時間として視覚的に正確に伝えてくれます。アナログも時間を視覚的に正確に伝えてくれますが、長針あるいは秒針が動いているという意味では、時間が動いている(時が流れている)ことを自覚させられます。それは、現在が過去と未来につながっている感覚を与えてくれる、と言ったら情緒的すぎるでしょうか。
短針と長針による午後5時という時間は終業時間まで残り15分、昼食休みが終わり午後1時に仕事が始まってから4時間が過ぎたことを思わされます。さらに、昼食休みには、妻の作ってくれた美味しい弁当を食べたことまでも思い出されます。
それに比較し、デジタルの時計で午後5時を知った場合には、終業時間まで残り15分だな、というところで思考もストップするような気がするのですが、こんなことは私だけのつまらない錯覚なのでしょうか。
カレンダーが、一般的にはひと月単位で表現され、数字が並んでいるのを見るのはアナログの世界のような気がします。一週間という生活の単位も、日曜日は楽しい休日であり、次の日はブルーマンデー。また、今日という日を前日(昨日)や次の日(明日)と繋がって意識することができるという点では、やはりひと月も一週間も時が流れていることを感じさせてくれます。
流れる時間というものを私の頭は整理できないのですが、それでもやはり、私は、時間は流れていてほしいと思うのです。馬齢を重ねて64歳までたどり着いた私の自立できない心の願いです。
「……」の多い、とりとめのないことばかりを書いてしまいました。
平成28年3月 教育長 小 谷 木 透
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教育委員会管理課 電話番号:0153-73-3111FAX:0153-73-5333
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