第38回 「生きる力」と「生きぬく力」と「生ききる力」
ある本で「生ききる力」という言葉に接しました。
「生きる力」といいますと、学校教育の世界に身を置く者は、2002年実施の学習指導要領によって「ゆとりの中での特色のある教育によって『生きる力』をはぐくむ」と提唱された言葉として思い浮かべます。単に知識を身につけるのではなく、その知識によって複雑で困難さを増しているこれからの社会で、しっかりと生きていかなければならない。
そういった意味として捉えられてきました。そして、「ゆとり教育」が学力の低下を招いたという批判のもとに、それらが見直される中で、もっと逞しく社会の中で世界の中で競争に勝つためには、単なる「生きる力」ではなく「生きぬく力」が大切であるという論調が出てきたように思います。
「生きる力」というと、単なる知識ではなく社会生活をしていく上で必要なさまざまな技術や能力、つまり一般的な意味で捉えます。生き抜くというと、他人との競争で勝つというイメージを抱きます。どちらも、他人対自分、環境対自分、社会対自分ということになります。では、「生ききる力」はどうなのでしょう。生き切るとは、第一感「自ら死なない」「全うする」というようなイメージが浮かんできます。つまり、自分対自分、自分自身がどのような生き方をするのか、そこを問題にしているように感じます。
いかがでしょうか。このように考えてくると、私たち一人一人の人間にとって、本当に大切にすべきは「生ききる力」ではないでしょうか。確かに、困難や悲しい出来事に遭遇して、人は耐え、戦い、何とか生き抜こうとします。しかし、生き抜くとは、自分の生きている何らかの環境の中での話です。つまり、どこまでも外側の何かに耐え、外側の何かと戦うということです。
人は自分自身と対話をするとき、「私は、なぜ生きているのか」「私は、何のために存在しているのか」「人生とは何か」「私とは何か」という根源的な疑問に突き当たります。その根源的な問題の向こうをめざし、その問題を抱えながら生きていくことこそが生き切るということではないでしょうか。
四月の年度初めに、さまざまにお話をする機会があり、ある一つのことを何度か話しました。
それは、三月末に中標津中学校の校長先生と教頭先生から届けられた一枚のカードでした。卒業の三年生が先生方に感謝の言葉を記入したカードを作成し、その中の一枚に、教育委員会宛のカードがあったということでした。そのカードには、「教育委員会のみなさまへ。私たちの見えない所で色々なことをしてくれて、ありがとうございました。これからも頑張って下さい!中標津中学校3年○組○○○○○」と書かれていました。
それは、見えない仕事を見てくれている人がいる。どんな仕事も誰かに見られている。いいかげんな仕事、雑な仕事、心のこもらない仕事は、どこかで誰かに見られている。真面目な仕事、丁寧な仕事、心のこもった仕事は、表立って評価されることがなくとも、どこかで誰かが見ていてくれる、ということを改めて思い出させてくれました。評価というものは自分でするものではなく、他人がするもの、してくれるものです。「誠実な仕事と謙虚な姿勢こそが大切である」と、自戒を含めてお話しました。
さて、年度当初のそんな忙しい時期もあっというまに終わりました。東北での大地震と津波、そして原発事故から五年が過ぎ、日本の社会はどのように変わってきたのか。私たちの生き方はどのように変わってきたのかと考えていた一ヶ月前、そんな思いを吹き飛ばしてしまうような熊本での大地震でした。五年前に、もう原発はいらないと思った人はたくさんいたはずです。しかし、その後対策を講じたということで、原発の運転は再開されました。活発な熊本地震の震源地からさほど遠くないところに原発がありますが、「暫くは運転を止めよう」という議論もないようです。もう一度事故が起きてしまったなら、また「想定外であった」と言うつもりなのでしょうか。
人類の進歩と人間が不遜になるということは切り離すことができないのでしょうか。一方で、「地球環境を守るために二酸化炭素の排出量を減らそう」「動植物の絶滅危惧種を保護しよう」、そして「人間は自然の一部である」などと言いながら、自然に対してこのように不遜な態度で向き合っていていいのでしょうか。人間がコントロールすることの困難な原子力を、またもシンプルに信頼していていいのでしょうか。
私たちは、確かに便利で快適な生活を求めてきた先人のおかげで現在という地点に暮らしています。しかし、この数年、あるいは十数年でしょうか、凶暴な気象環境や自然現象に曝されています。
真面目くさって言いますが、やはり「誠実」と「謙虚」は大切です。
「生きる力」といいますと、学校教育の世界に身を置く者は、2002年実施の学習指導要領によって「ゆとりの中での特色のある教育によって『生きる力』をはぐくむ」と提唱された言葉として思い浮かべます。単に知識を身につけるのではなく、その知識によって複雑で困難さを増しているこれからの社会で、しっかりと生きていかなければならない。
そういった意味として捉えられてきました。そして、「ゆとり教育」が学力の低下を招いたという批判のもとに、それらが見直される中で、もっと逞しく社会の中で世界の中で競争に勝つためには、単なる「生きる力」ではなく「生きぬく力」が大切であるという論調が出てきたように思います。
「生きる力」というと、単なる知識ではなく社会生活をしていく上で必要なさまざまな技術や能力、つまり一般的な意味で捉えます。生き抜くというと、他人との競争で勝つというイメージを抱きます。どちらも、他人対自分、環境対自分、社会対自分ということになります。では、「生ききる力」はどうなのでしょう。生き切るとは、第一感「自ら死なない」「全うする」というようなイメージが浮かんできます。つまり、自分対自分、自分自身がどのような生き方をするのか、そこを問題にしているように感じます。
いかがでしょうか。このように考えてくると、私たち一人一人の人間にとって、本当に大切にすべきは「生ききる力」ではないでしょうか。確かに、困難や悲しい出来事に遭遇して、人は耐え、戦い、何とか生き抜こうとします。しかし、生き抜くとは、自分の生きている何らかの環境の中での話です。つまり、どこまでも外側の何かに耐え、外側の何かと戦うということです。
人は自分自身と対話をするとき、「私は、なぜ生きているのか」「私は、何のために存在しているのか」「人生とは何か」「私とは何か」という根源的な疑問に突き当たります。その根源的な問題の向こうをめざし、その問題を抱えながら生きていくことこそが生き切るということではないでしょうか。
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四月の年度初めに、さまざまにお話をする機会があり、ある一つのことを何度か話しました。
それは、三月末に中標津中学校の校長先生と教頭先生から届けられた一枚のカードでした。卒業の三年生が先生方に感謝の言葉を記入したカードを作成し、その中の一枚に、教育委員会宛のカードがあったということでした。そのカードには、「教育委員会のみなさまへ。私たちの見えない所で色々なことをしてくれて、ありがとうございました。これからも頑張って下さい!中標津中学校3年○組○○○○○」と書かれていました。
それは、見えない仕事を見てくれている人がいる。どんな仕事も誰かに見られている。いいかげんな仕事、雑な仕事、心のこもらない仕事は、どこかで誰かに見られている。真面目な仕事、丁寧な仕事、心のこもった仕事は、表立って評価されることがなくとも、どこかで誰かが見ていてくれる、ということを改めて思い出させてくれました。評価というものは自分でするものではなく、他人がするもの、してくれるものです。「誠実な仕事と謙虚な姿勢こそが大切である」と、自戒を含めてお話しました。
さて、年度当初のそんな忙しい時期もあっというまに終わりました。東北での大地震と津波、そして原発事故から五年が過ぎ、日本の社会はどのように変わってきたのか。私たちの生き方はどのように変わってきたのかと考えていた一ヶ月前、そんな思いを吹き飛ばしてしまうような熊本での大地震でした。五年前に、もう原発はいらないと思った人はたくさんいたはずです。しかし、その後対策を講じたということで、原発の運転は再開されました。活発な熊本地震の震源地からさほど遠くないところに原発がありますが、「暫くは運転を止めよう」という議論もないようです。もう一度事故が起きてしまったなら、また「想定外であった」と言うつもりなのでしょうか。
人類の進歩と人間が不遜になるということは切り離すことができないのでしょうか。一方で、「地球環境を守るために二酸化炭素の排出量を減らそう」「動植物の絶滅危惧種を保護しよう」、そして「人間は自然の一部である」などと言いながら、自然に対してこのように不遜な態度で向き合っていていいのでしょうか。人間がコントロールすることの困難な原子力を、またもシンプルに信頼していていいのでしょうか。
私たちは、確かに便利で快適な生活を求めてきた先人のおかげで現在という地点に暮らしています。しかし、この数年、あるいは十数年でしょうか、凶暴な気象環境や自然現象に曝されています。
真面目くさって言いますが、やはり「誠実」と「謙虚」は大切です。
平成28年4月 教育長 小 谷 木 透
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教育委員会管理課 電話番号:0153-73-3111FAX:0153-73-5333
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