第43回 リアリズムの衰退

 大げさなタイトルを付けましたが、10月に参観した小中学校の学芸会・文化祭での劇についての感想です。今や小学校学芸会の劇で、白雪姫や桃太郎が次から次と入れ替わり何人もの児童によって演じられるというのは当たり前のようです。そのことには慣れてしまった私ですが、劇の内容についてはなかなかすっきりとは受け入れられません。
 以前に、新聞のテレビ番組欄にあるところの長時間にわたる番組について思いを書いたことがあります。つまり、「使い捨て」のような内容、「瞬間の刺激」だけを求める時間、それらが延々と二時間三時間と放送されるのです。それらに近いような子どもたちの劇を見せられるとき、このような劇づくりに時間を費やすことで子どもたちが成長するのだろうか、と心配になります。もちろん、練習過程での葛藤もあるでしょうし、軽いギャグも受けるためには上手なセリフとして言うための練習が必要でしょう。さらに、毎日の生活や子どもの成長に面白さや笑いも大切な要素であることは私も理解しています。でも、やはり「質」を考えてほしいのです。子どもの成長を図るには、自分たちの演じる、作り上げる劇が自分たちにとってどんな意味があり、見てくれる人たちに何を伝えようと意図しているのかなどの要素をしっかりと思慮した取り組みが必要だと思います。
 なにも昔の生活劇こそ劇で、低学年にもそんな劇を取り組ませろとは言いません。でも、考えてほしいのです、どうしたら子どもたちが成長できるのかを。たとえ、白雪姫の役を与えられずりんごの木の役であっても、川を流れる桃の役であっても、子どもは成長するはずです。指導者に成長させようという思いがあれば……。
 
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 年寄りの歎き節を語るようですが、ハロウィーンのニュースに接して思ったことがあります。その起源や意味についても随分説明されていました。「ケルト族の正月の前夜祭」であるとか「収穫祭」であるとか……
 かぼちゃの彫刻を飾ったり、仮装してパーティーをしたりというのも、こう楽しいことの少ない世相の中では結構なことだと思います。気になったのは東京・渋谷での様子やインタビューです。(なぜ、私はあちこちにめくじらを立ててばかりいるのだろうか?)
若い人たちがあんなに多く集まり、若い人たちにあれほどのエネルギーがあるのなら、社会で起こっていることに政治的な事柄にもっともっと強い関心とエネルギーを注いでほしいと思うのですが……、そうならないのは、何かの意図か誰かの意図か?
 私たち庶民は、リアリズムの中で生活しています。かぼちゃに顔を彫るのも楽しいのですが、毎日の食卓に上るかぼちゃにしろ、ピーマンにしろホーレンソウにしろ、台風被害などによるこの秋からの野菜価格の高騰は目に余るものがあります。日銀はデフレ脱却のために物価を上げることが目標だと言いますが、物価が上がると企業が潤い、給料が上がって庶民の生活が豊かになるというのは、本当なのでしょうか。
 若さは、少しでもその若さを押しつぶそうとするものに抵抗するものです。自分の進もうとする道にある強固な壁と戦い打ち崩し、乗り越えていこうとするのが若さではなかったのでしょうか。それが若さのリアリズムではなかったのでしょうか。
 
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 さて、人と人とのコミュニケーションが困難な時代と言われていますが、他人は自分の鏡ですから謙虚で寛容であることが大切です。次のような言葉が示唆に富んでいるのではないでしょうか。

「求められているのは価値観を共有しない他者への想像力とわずかな礼節かもしれません」 『文学で読む日本国憲法』長谷川櫂(筑摩書房)

 
中標津町教育委員会 教育長 小谷木 透