小さいころ他の子より少しばかり大きかったばかりにちょっとのろまな事をすると、「ウドの大木」扱いされた経験のある方はいるだろう。
ウドはどんなに大きくても柱にならないたとえで、図体ばかり大きく今一つ頭の切れが良くなかったり、動作が鈍かったりするときの悪口の代表である。しかし、柱になるほど大きくなったウドは見たことがない。
この地方では5月中旬から6月にかけて陽のあたる浅い藪に見かけ、採ったことはなくても食べたことはある、というくらいごくごく普通の山菜である。条件が整った所では太くやわらかく育っているようで、毎年同じ場所で採る楽しみを味わっている方もいるようだ。にやにやしながら一人ひそかに楽しんでいる様子が目に浮かぶが、山菜採りはどうしてこう秘密主義なのだろう、といつも思っている。半分悔しいのだが...。
さて、食する方法といえば、旅館では季節の料理として、味噌和えや薄い醤油だしなどで小鉢に出てくる。アクが強いので、ゆがいて水にさらすのが食べ易いようだ。
個人的にもこの苦みのあるアクがあまり好きではなく、ウドの食べる回数は少ない。とはいえ、せっかくの春の気分を逃したりせずに味わう方法を模索した結果、今のところ若葉のテンプラが一番気に入っている。
春の日差しを感じ地表にやっと顔を出し、まだ白い産毛に包まれているいかにも柔らかそうなウドを数本掘り起こし、この若葉をカラリと揚げ、和紙の上に盛りつけ、自然の恵みに感謝しながら、お銚子を傾けるのである。
更に、残っている茎の部分をキンピラなどにすると、これまた一段と春の趣は深くなるのである。春はかくありたいものである。この場合、がっぱりと皿に積み上げては春らしさも品もなくなってしまうので、気をつけたい。
状況によってはスライスして酢水か流水にさらし、アク抜きをしてドレッシング等をかけて食べるのも捨て難い。この食べ方はウドの嫌いだった父が突然ウド好きになった食べ方である。
山菜が得意でない方はぜひいろいろな料理方法を研究し、自分にあった好みを探ってほしいものである。その味を発見した時の感激が季節感となって田舎暮らしの楽しみとなるのである。