わたしたちの町に人が住むようになったのはいつのことで、どのへんにというのはまだ解明されていませんが、今まで発見された「縄文土器」などから、約6000年前にはこの地で生活が営まれていたことが分かっています。その後の「続縄文時代」、「擦文時代」、「アイヌ時代」でも人々が生活をしていたことが分かっていますが、詳しいことはまだはっきりしていません。
江戸時代の終わり頃になると、標津川とケネカ川沿いに、標津〜斜里を結ぶ「斜里山道」という道が使われていました。もともとこの道はアイヌの人々が使っていたものでしたが、その後整備されたこともあって、役人や旅人が通るようになりました。古い記録によると、この道中には宿泊施設や休憩所などがあったそうです。しかし、この道は現在の根北峠にあたる「新斜里山道」の開通により、1885(明治18)年に廃道となってしまったため、しだいに人々の記憶から消えていくようになってしまいました。
中標津の開拓は1911(明治44)年から始まります。むかしの中標津のようすはこちら
移住者は全国各地から相次ぎますが、世界的な経済不況や連年にわたる冷害凶作により、先人達は言葉で言い表せないほどの苦しみを味わうこととなりました。
こうした大変な状態の中、1931(昭和8)年の「根釧原野農業開発五ケ年計画」により、穀物主体だった農業より、現在の中標津町の基幹産業である酪農へと変換が図られました。計画は戦争の影響で中断してしまいましたが、中標津には旧陸海軍の飛行場が建設され、同13年に全線開通した国鉄標津線とともに交通の拠点として活気をみせました。
やがて、同21年7月1日には標津村から念願の分村が実現し、そしてその後わずか3年余の同25年1月1日に町制施行を果たしました。その後もわたしたちの中標津町は、根室管内の中心地として着実に発展を続けています。
殖民軌道に関するホームページ
中標津町内殖民軌道探査記録
殖民軌道に関する資料
中標津町における殖民軌道についてのまとめ(エクセルファイル)
中標津周辺の殖民軌道路線図(昭和8年頃、昭和16年頃)(JPGファイル)
※時代によって路線状況は変わりますが、ここでは全体を見渡せるように一括で扱っています。
また、路線の位置には若干の誤差がありますのでご注意ください。
作成:木村孝、山宮克彦
町内の学校に関する資料
中標津町における学校の沿革ついてのまとめ(エクセルファイル)
※平成27年度末までの沿革です。
作成:山宮克彦
町勢要覧(PDFファイル:281Kb)
資料編
『中標津町開町四十年記念写真集 ふるさとなかしべつ不惑の40年』(昭和60年11月15日発行)