中標津町に人が住むようになったのはいつごろで、どのへんということは、はっきりしていません。
しかし、今まで発見された土器などを調べてみると、約6000年前に、じょうもん式土器をつかった人びとが住んでいたことがわかっています。
じょうもん式土器をつかった人びとや、その後生活していたぞくじょうもん式土器をつかった人びと、そしてアイヌの人びとは、日当たりのよいおかや、水をつかうのにべんりな川の近くに家をつくりました。
人びとはそこで土をやいてつくった土器や、石でつくった石器、動物のほねでつくったこっかく器などをつかい、山や川からの自然のめぐみをうけて生活していました。
むかしの北海道には、たくさんのアイヌの人が住んでいました。かわのある所にそってコタン(村)があり、魚や貝、けものをとって生活していました。アイヌの人が住んでいたあとやチャシ(山じろ)のあとがいくつかのこされています。これらはたいてい丘の上や見晴らしの良いところにつくられています。
アイヌの人はクマなどの、たましいを祭(まつ)れば、よろこんで神の国へ帰って行けると信じていました。その祭りの場所を「熊送(くまおく)り場(ば)」といいます。
クマは、神の子です。送るぎ式を「イヨマンテ」といい、とても大切なものと考えていました。
中標津地方は、アイヌの人たちが、魚やしか、クマなどをとる、とても重要なところだったのです。
また、釧路・根室・網走に行く通り道となっていて、アイヌの人たちがつかうする温泉や駅ていりょかんもありました。このようにして、アイヌの人たちは、たがいに助けあい、村おさの命れいにしたがって、きまり正しい生活をおくっていました。
山や川にはたくさんの食べものがありました。畑で作物も作るようになりました。人々はこのようにくらせることを神にかんしゃしていました。
その1〜中標津の開たく
北海道を開たくするために、道庁では、北海道のようすを書いた案内や、映画を作って、たくさんの人がくるようにせんでんしました。
1911(明治44)年、中標津町にはじめて開たく者が入植してから大正時代にかけて、少しづつ人がふえてきました。そのころの中標津は、道らしい道もなく、大森林のおいしげった荒地でしたが、この原野入りこむにはおもに3つの道がつかわれました
そのひとつは、釧路から小さな船にのって釧路川へすすみ、つぎに、駅ていから駅ていへと歩いて中標津にむかう方法。
もうひとつは、釧路から根室まで船できて、そこから標津まで歩いて中標津に入るか、または、船で標津まできて中標津にくる方法。
さいごは、網走から斜里まで歩いて、駅ていにとまりながら何日もかかって、根北峠をこえ、川北を通り中標津につくなどの方法でした。
大正時代の開たく者は、おもにこの3つの道を通ってきたのですが、女の人や子ども、老人のいる家族をつれて、あせを流し、足にマメをこしらえながら、いく日もかかって歩いたのです。
川の近くは農業によい土地なので、みんな早いもの勝ちで、川の近くのよい土地を手に入れようとしました。
そして、まず最初に小さな小屋を建てます。
この小屋は、人が手を合わせておがんだときのような、三角形のそまつなものなので、「おがみ小屋」とか「ちゃくしゅ小屋」などとよばれました。このほかにも、その形から「あみがさ小屋」、「さんかく小屋」、「カマボコ小屋」などとよばれるものもありました。
次に、大きな木を切りたおして焼き、家を建てる場所をつくってから、ササやカヤの屋根をつけたほっ立小屋を作るのです。開たく者の中には、木の皮をはりつけてその上に土をかけるという、当時としてはりっぱな小屋をたてる人もいました。
家と家は遠くはなれていて、小さな道がついているだけです。
入植した人は、このような小屋に住みながら開たくをはじめました。
馬をかりるのにはお金がかかるので、重いクワを持ち、ひとクワひとクワ自分の手で土地をたがやしました。ですから、1反歩(=いったんぶ=10アール)の土地をたがやすのに10日もかかりました。
それでも、毎日毎日あせにまみれながら、いっしょうけんめいに働いたのです。
そまつな家の中は、部屋が2つくらいで、大きなストーブでまきをもやして部屋の中をあたためました。
冬になると屋根やかべのすき間から雪が入りこみました。朝、目がさめると、ふとんの上は白くなり、えりははくいきでカチカチにこおっていました。
食べ物は、そば粉で作った、だんごやそば焼きが多く、麦にマメやイナキビをまぜたごはんは、ごちそうでした。お米は、お盆やお正月のときだけしか食べられなかったのですが、川には、たくさんのサケやマスがのぼってきたので、食べ物にはこまりませんでした。
服はほとんど着物を着ていました。
子どもたちは、冬でも(わたの入った)着物を着て、手ぬぐいで、ほおかぶりして学校に通いました。
くつは、わらで作った、ぞうりやツマゴ、鮭の皮でつくったくつをはくこともあったそうです。冬には赤いもうふを足にまきつけて、わらぐつをはいたり、雪の上を歩くときは、かんじきをはいたりしました。
その2〜馬のはたらき
農家では馬をつかって、木の根をほりおこしたり、畑をたがやしたりしました。また、冬になると、大きなソリをつかって木をはこぶ仕事もしました。
そのほか、荷物や人を運ぶのも馬の大切な仕事でした。ですから、どこの農家でも馬を2頭くらいはかっていて、家族と同じようにとても大切にしていました。
その3〜鉄道がしかれる前
鉄道がしかれる前は、ほとんど人や馬で運んでいました。また、旅をする人は山道を通ったりしてたいへん不便でした。こうした人々のためにつくられたのが"駅てい"で、人々はそこに泊ったりして旅をしました。
その4〜あるおじいさんの話「むかしは、農家の仕事はみんな人手でしました。
たねまき、ひりょうまきも全部人の手でしました。
馬がはいってきてからは、馬で畑をたがやしましたが、やはり人の手が多くつかわれました。
農家の人は、朝早くから夜おそくまで畑ではたらきました。
今はトラクターやべんりな農機具ができたので仕事が楽になりました。」
その5〜あるおじいさんの話
「わたしが、開たくにはいったころは、根室から標津まで船できて、そこから俵橋まで歩いてきました。
大きな荷物をせおって、草がおいしげった道や標津川のふちを通って、開たく地にやっとたどりつきました。
人がたくさん住むようになると、道路ができ、"駅てい"ができましたが、昭和のはじめには、中標津から標津まで、小さな線路の上を馬が車を引いて荷物を運ぶ馬鉄(殖民軌道ともいいます。写真左)が通っていました。
また、その線路には1929(昭和4)年にはガソリンカー(写真右)が走りました。」
その1
中標津町に住む人たちは、汽車が通ればもっと便利になるだろうと思い、国や道庁に何度もお願いして、ついに長年の願いがかなって、1934(昭和9)年から1937(昭和12)年にかけて、厚床線、標津線が開通しました。
それからは、中標津町でとれた農産物や乳製品が、かもつ列車で遠くの町まで送られるようになりました。
また中標津町に住んでいる人たちに必要な、いろいろな品物も、たくさん運ばれてくるようになり、とても便利になりました。
※標津線は平成元年に廃止されました。駅のあったところは現在中標津町交通センターになっています。
その2
厚床線、標津線にはC-11(丸山公園にあるのはC-11209)とC12という機関車が走りました。
鉄道の開通は毎年のように続くきょうさくにうちのめされた住民にとって、新しい希望をあたえてくれました。
また、交通が便利になったことで、中標津地方の開たくがいっそう進み、中標津は根室管内の中心地として、酪農をはじめ、商業や工業も大きく発達して、1946(昭和21)年に中標津村がたん生しました。
村、そして町になるまで
荒地だった根室原野中標津は、1年中ガスが立ちこめて、農業どころか人も住めないと信じられていました。しかし開こんをためしてみたところ、農業ができることがわかりました。
このことが道内外に伝えられると、俵橋、武佐、開陽、俣落に開拓する農家がふえ、人口も多くなり、1918(大正7)年に1731人(400戸)だった人口も、1932(昭和7)年には中標津市街地だけで100戸をこえるようになりました。
海岸地方にくらべ内陸は、開発がおくれぎみでしたが、1923(大正12)年、標津(中標津をふくむ)が村になりました。
昭和になって急に開たくが進み、学校や店ができ、道路がつくられ、郵便局がおかれ、電話もつかえるようになりました。
けれども1931(昭和6)年、1932(昭和7)年には、大きな冷害きょうさくにあうなど、たいへん苦労したこともあったのです。
その後、町の産業は酪農に切り替わっていきました。戦争などの影響もあり困難は続いていましたが、年と共に中標津はどんどんひらけて人口は9943人となり、1946(昭和21)年7月1日に標津村から分かれて中標津村となりました。
やがて、人口が11000人となり、1950(昭和25)年1月1日に中標津は村から町になりました。