Nakashibetsu Municipal folk Museum

中標津町の地名には、アイヌ語地名と日本語地名、そして両者をあわせた合成語地名(?)があります。

地名

北海道の他の地域と同じように、中標津町もかつてはアイヌの人々の活動の場でしたので、生活にちなんだものや、地形を表した特色あるアイヌ語地名が川の流れに沿ってつけられていました

また、その他にも移住が始まってからつけられた地名もあります。

町内の字名のうち、もともとアイヌ語地名だったものは、「俣落」、「武佐」、「当幌」、「計根別」、「養老牛」で、移住が始まってからつけられた地名は「俵橋」、「開陽」、「協和」、「豊岡」、「西竹」、「中標津」、「上標津」です。

なお「上標津」「中標津」は日本語とアイヌ語の合成語です。


川の名の由来はこちら

俣 落 (またおち)

俣落チャシコツ俣落川からつけられた地名。もともとはアイヌ語です。『永田方正地名解』には「冬居川、此川「メム」三箇所アリテ鮭多し冬日も亦滞留スルコトアリ故に名ク或「アイヌ」ハ「マタオチ」ト云ウハ訛ナリ」とあって、この解釈をとる人が多いようです。

昔は鮭が多く上がったという話しを聞ますが、メム(水の湧いている所)が3ケ所あるということはわかっていません。「マタ」は冬のことであり「オチ」を「オツ」とすれば「オツ」は“群在する”つまり“ごちゃごちゃ”いるという意味になりますが。「前の語が名詞であると「・・・群在する」という意味で、動詞に続けば「いつもそこで・・・する」の意になる。」(知里真志保・『地名アイヌ語小辞典』)。「マタ」は、冬という名詞であるから、訳すと「冬が群在する。冬がごちゃごちゃいる」となります。「マタオチ」だけでは冬に何が群在していたかわかりませんが、冬にたくさん鮭がいたと解釈したものかもしれません。

武 佐 (む さ)

昭和初期の中央武佐市街(開陽方向から撮影)武佐川からつけられた地名。もともとはアイヌ語です。釧路市にも全く同じ地名の「武佐」がありますが、現在でも意味は分かっていません。いろいろな説があるので下に書き出してみます。

1.松浦竹四郎の『知床日誌』では「モサ」(イラクサの意で、この植物から織物や糸の繊維を取った)となっている。もともとはイラクサの生えていた沢かもしれない。「モサ」→「ムサ」?。

2.永田方正の『北海道蝦夷語地名解』では「?」となっている。

3.大正時代の初期にこの地で「幣(ヌサ)場」(ヌサとはアイヌの人達が木を削ってつくるもので、神に祈る時に捧げる)を見た人がいる。「ヌサ」→「ムサ」?。

4.札幌鉄道管理局の『北海道駅名の起源』では「意味は明らかではない」。

これらの他にも説がありますが、いまだしっくりくるものはありません。今のところはクエスチョンマークを付ける他はないようです。

当 幌 (とうほろ)

当幌川から字名をとったもので、もともとアイヌ語地名のひとつです。この地名の解釈については、

1.『永田方正地名解』〔永田方正〕→「沼川」(ホロは川の意味)

2.『アイヌ語地名解』〔更科源蔵〕→「沼川」(野付湾を沼と解釈)

3.『萬覚帳』〔加賀伝蔵〕→「川有、沼おふき也」

4.『東蝦夷日誌 八編』〔松浦竹四郎〕→「沼多き故に沼川という」

 と記載されています。つまり「トウホロ」の「トウ」は「ト・トー=沼」という解釈で共通しているのですが、「ホロ」を「ポロ=大きい」とするか、「オロ=〜の中、〜の所」とるか、「ホロ=川」の意味にするかで解釈も違ってきます。当幌川は中流から下流にかけて湿地は多いのですが、沼というほどのものは見あたりませんので、野付半島に囲まれた湾を沼として「沼の・所の・川」と解釈したのではないかと考えられます。

計根別 (けねべつ)

「ケネカ」(『北海道歴検図』) ※写真右側の山は西別岳この地名は町内に多数存在するアイヌ語地名の一つです。江戸時代から明治時代の古文書には「ケニタエ」、「ケネカ」、「ケネカフト」、「ケネオイカペツ」など、計根別に関係すると思われる記述がいくつか出てきます。その中でも「計根別」の語源になったと思われる「ケネオイカ」の意味には「ケネウ・オ・イカ(蕗鱒が・そこで・越える)」と「ケネ・オ・イカ(はんの木川を・そこで・越える)」という説がありますが、解釈の仕方によって大きくその意味が変わってしまいます。ただ、ケネカ川にはポンケネカ川という支流がありますが、松浦武四郎の『志辺津誌』ではこの川について「はんの木が多い」と説明しています。

「ホン」もしくは「ポン」は「小さい・子である」といった意味ですので、「ケネカ」を親とすると「ケネ・オ・イカ(はんの木川を・そこで・越える)」が真実により近いと思われます。 しかし、いつからこの地域が計根別と呼ばれるようになったかは不明です、明治30年測量の地図には「計根別」という地名は記載されていませんでしたが、25年後の大正11年測量の地図には「計根別」と記されていました。

(写真は「ケネカ」、『北海道歴検図 根室州 上下』(1871年):北大付属図書館蔵)

養老牛 (ようろううし)

一見すると和製地名のようですが、実はアイヌ語地名のひとつです。大正5年、養老牛温泉の開発につくした西村武重氏は「ヨローウシ」というカタカナ地名に、はじめ「養老趾」とあて字をしました。その後「養老牛」とあらため、これが地図に採用となり、字名になって現在に至っています。

1.「エ・ウォル」→「頭を水に突っこんでいる意」(『北海道地名誌』、更科源蔵)

2.「エルオシ」→「山が岩崖になって水中に入り込んでいる所」(『地名アイヌ語小辞典』知里真志保)

3.『久摺日誌(くすりにっし)』(松浦武四郎)の摩周湖の図にヨロウシという地名があり、「アイヌが木幣を作り立て拝す」と説明をつけています。もしこのことが熊祭りに関係があるとするならばヨローをイオ(ヨ)マンテの変化したものとも考えられます。

4.「イ・オロ・ウシ」→「それを・水に漬ける・ところ」(山田秀三)。本田克代氏の聞き取り調査で「虹別のメノコがここへ来てイラクサを浸していた(うるかして繊維をとる)」との話しもあります。
※「老女たちは、イラクサやオヒョウの皮などをいで湯にさらして、その繊維で糸を作って、アツシを織る」、『養老牛の今昔』P148(昭和50年、西村武重)

俵 橋 (たわらばし)

3代目の俵橋大正6年10月13日、第14代北海道庁長官の俵孫一ら一行70人が中標津原野を視察にきました。それは北海道第1期拓殖計画というものの実施の状況と、入植後間もなく冷災害にあい、苦しんでいる移住者の実態にふれるためのものでした。その頃の標津川14線には橋がなく、川を渡るにはすべて船によるものであったため、俵孫一長官一行の通行はまず無理なものでした。しかし部落の人たちは忙しい時期だったにもかかわらず、全員で橋を作りはじめ、4日間不眠不休のすえに橋を完成させました。こうして俵長官一行は無事に川を渡れましたが、これに感激した俵長官はすぐに橋の新設を命じて立派な木橋を完成させました。この時の小学校教員の向井義弘さんが、これを記念して俵長官の姓を橋の名前として「俵橋」としました。そしてこれが地名となったのです。

開 陽 (かいよう)

殖民軌道開陽停留場最後の運行時のもの(昭和12年)北海道の地名の多くは、アイヌ語地名に漢字をあてたものですが、大正4年、移民指導者として井沢好松、河野竹太郎、木村忠作氏らの3戸が入地したところは中標津原野22線で、当時、ここを通称「中標津原野開墾指導所」、または「新区画」とよんでいました。大正7年に学校ができることとなったのですが、この地の名前がないので、木村忠作らが集まって相談した結果「陽に向け発展する。太陽のごとく拓け隆々発展する」ということを願って「開陽」と名付けたといわれています。また、テレビ中継所や三角点のある台地は昭和4年から馬の放牧地として開放されていましたが、ここにスキー場が出来たのは昭和35年。また、36年にはNHKのテレビ中継局が置かれました。当時部落の人達は、通称「武佐台」と呼んでましたが、開陽にあるのに武佐台ではおかしいので、正式な地名を調べてみたところ無名であったため、昭和37年2月11日に、NHKテレビ中継局の開局を記念して行われた、第3回町民スキー大会において当時の尾崎豊町長が、「開陽台」と命名しました。

協 和 (きょうわ)

昭和30年4月、豊岡とともに別海町(当時は村)から編入された地区です。ここは昭和3年に部落が形成されました。入植当時は『しののめ』、『ねいらく』、『春別』でひとつの部落を三分していましたが、その後それでは不便だということで、部落の人たちが話し合いをし、「協心同力の精神によって地域の振興を図ろう」ということで、また、一説には「中春別移住者世話所が名づけた」というのもあります。ちなみに『しののめ』は「東雲」と書き、「明け方、あけぼの」の意味で、『ねいらく』は「寧楽」と書き、「安じて楽しむ、安楽」という意味を持っています。現在の協和地区には「協和」と「拓農」の2部落があります。

豊 岡 (とよおか)

この豊岡は、「協和」と共に別海町(当時は村)から昭和30年4月に中標津町へ編入された地区です。開拓は昭和3年の入植から始まりましたが、その地名については色々な説があるようです。以下に挙げてみると...。

・「昭和5年頃、小原好次氏の発案で富岡という部落名ができたが、村役場の手違いで豊岡となった」

・「九州の福岡から多くの入植者を迎えて福岡の岡をとり豊かなる将来を願い豊岡とつけた」

・「豊かな野であったので、豊野と名付けるつもりで役場へ届けに行ったところ、当時別海に富岡と名付けた所があり、係の者が誤って豊野の豊と富岡の岡をとり豊岡とつけてしまった」(『豊岡の歩み』より)。

また、「入植当時は豊野といわれていた。それが、別海村役場から来る公文書はすべて豊岡となっている。村役場で間違ったことから豊野が豊岡に変わり、現在におよんでいる。」(『中標津町小史』より)とあります。

西 竹 (にしたけ)

大正5年、養老牛温泉の開発に手を染めた西村武重氏は同7年に、俣落川から養老牛温泉までの国有林を約16平方キロメートルにわたり有料貸付を受け、馬車道を私費開通しました。そのとき無名の川に自分の名前から1字づつとって「ニシシゲ(西・重)川」、「ニシタケ(西・武) 川」等の川名をつけました。それがいつしか地名となり、昭和4年の字名改正から正式に「西竹」と決まりました。西竹地区の開拓は昭和14年頃からはじまりますが、戦後の緊急開拓もあって広範囲にわたり、第二俣落を含めた部落は西竹、東西竹、上西竹、第二上西竹、若竹、新栄、西竹中央、北光、北進、群馬、高峯、本俣落(アイヌ語のポンマタオチ川からとった地名です)を数えます。西竹地区を流れる川に荒川、鱒川がありますが、鱒川についてはチプニウシュベツと呼ばれていたらしいのですが、荒川のアイヌ語地名については不明のままです。

中標津・上標津 (なかしべつ・かみしべつ)

上標津神社町の名前である中標津や上標津は、日本語とアイヌ語の「シ・ペッ(Shi-pet)」との合成語です。

「シ・ペッ」の「シ」とは、『真の、本当の、大きな』の意味を持ち、「ペッ」とは『川』のことです。つまり『大きな川』=『本流』という意味になります。

中標津は「”中”流域にあるシ・ペッ」、上標津は「”上”流域にあるシ・ペッ」

※「シペ・オッ(Shipe-ot)」=『鮭の群在している』という解釈もあります。


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