Nakashibetsu Municipal folk Museum

中標津町のシンボル的な山・川、そして地質について。

中標津の山々

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武佐岳(1005.2m)

生い立ち

武佐岳

・もともと海の底であったが、火山活動により隆起し陸地となった。
 活動時期は約90万年〜50万年前とされている。

・クテクンの滝では、節理の発達した武佐岳の火山噴出物を見ることができる。

・武佐岳の山体は武佐岳溶岩。これは安山岩の一種で「普通輝石紫蘇輝石安山岩(ふつうきせきしそきせきあんざんがん)と名づけられている。」

開拓前

・目賀田帯刀が安政4年(1857年)に踏査し、明治4年(1871年)に外務省に提出した『北海道歴検図根室州 下』のウコフトルから見た図の「海別岳」とあるものが武佐岳と思われる。

・松浦竹四郎が安政5年(1858年)に調査し、安政6年(1859年)に提出した、『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』の中で、「モサ川の水源はチセネ岳」、「チセ子ノホリ」とある。同じく『東西蝦夷山川地理取調図』にも「チセ子ノホリ」とある。このチセネノホリが武佐岳とも考えられる。

・明治30年測量の大日本帝国陸地測量部による「5万分の1」の地図には武佐岳という名は記されてない。

開拓後

・大正11〜13年測量の大日本帝国陸地測量部による「5万分の1」の地図には武佐岳とある。

その他

・1956(昭和31)年から山開きは6月第2日・j日になった。

・800mあたりからハイマツ帯が上に広がっている。

・1000m 級の山には珍しく、落葉樹林帯・針葉樹林帯・ハイマツ樹林帯が集約されている。

・登山高度差766m、登山距離6km。約2時間で登ることができる。

・分布域が国内若干の地域に限定されている、カラフトルリシジミの生息が確認されている。

・頂上からは、根釧原野を一望できる。

標津川(流路延長77.9km)

古文書に出てくる標津川

標津川と武佐川の合流地点

・1700年の『元禄御国絵図』に「ちべ内」と記されてから、「シ別」、「シベツ」、「シヘツ」、「シペッ」と表される。

・18世紀後半から明治中期にかけて、標津〜斜里に通ずる道があった(標津川〜ケネカ川〜清里峠)。

・道中には休憩所や宿泊所などが数ヶ所あった。

・標津川本流、支流にはたくさんのアイヌ語地名があった。現在も残っているが、かなりの数が消えてしまっている。

その他

・標津川は二級河川。

・水災は山地において緩斜面が卓越しているため山容が比較的安定し、大きな災害は発生していない。しかし、クテクンベツ川に面した斜面に土石流が発生したため砂防築堤が施されています。また、クテクンベツ川、俣落川などの河川沿いの山腹部の急斜面には小規模な崩壊があります。

・標津川の「標津」は、中標津町の名の由来となっている。日本語の「中」とアイヌ語の「シ・ペッ=大きな・川」の合成語。

・アイヌ語で「ペッ」「ナイ」は川の意味を持つ。

・昔は鮭が群れをなして遡上した。「棒を立てても倒れなかったくらい」という開拓者の話しもあった。昔の魚のようすはこちら

・大正年間は、枕木、薪材、角材、砲台(小銃の台尻用材)などを筏に組み、あるいはバラの流送で、川口の標津港へ流しだしたものであった。(『北海の狩猟者』、西村武重、山と渓谷社、昭和42年発行)より抜粋 )

なかしべつの地質

私たちの住んでいる地面の下のようす

地層のようす

・地下にある多量の火山灰は、なかしべつの近くの火山の噴火による。

・雌阿寒岳(約13,000年前に噴火始まる){現在も水蒸気が出る}

・摩周カルデラ(約7,000年前に形ができる)

・硫黄山(アトサヌプリ){現在も活発に活動している}

・カムイヌプリ(約3,500年前から噴火が始まる)

・60万年前頃、武佐岳をはじめとする中標津の山々は上昇を始めた。

・中標津の山岳は、安山岩を中心とした火山岩(武佐岳、俣落岳、サマッケヌプリから出た溶岩)と堆積岩が若干みられる。

・丘陵性地区は、時代的に新しく、生物化石はない。また、未凝固の堆積層で、分布についてもバラツキがある。

※ 黒墨→溶結凝灰岩(屈斜路火山起源の火砕流によってできたもの)。

※ 山砂→河川堆積物か海成層かは不明。


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