江戸時代の終わり頃、シベツ(標津)方面からシャリ(斜里)へ、またその逆のコースをたどるのに、シベツ川沿いからケネカ川の合流点へ出て、ケネカ川とシベツ川にはさまれた平野を通って、現在の道々摩周湖中標津線に近いケネカ川沿いの道を行き、清里峠(現在の峠から北寄り)を越える「(旧)斜里山道」という道がありました。
当時のシベツには、現在の標津神社付近に人家があり、海岸沿いに南下した「ホニオイ」と言われた場所から道は内陸へ向かいました(現在の国道272号道よりは少し標津川寄りになります)。現在の中標津市街は「タヲリマフ」と呼ばれ、小休処があり、また、タヲリマフとホニオイの間には「トエヒラ」と呼ばれる小休処もありました。
昔は、馬に乗るのはほんの一部の人のみで、すべて歩きでしたので、途中に休憩所や宿泊所が必要でした。シベツを出てシャリへ向かう途中、第一日目に宿泊するのは、中標津市街より標津川沿いの少し上流である「チライワッタラ」(標津川とポン俣落川の合流地点の対岸付近)でした。
安政元年(1854)に函館奉行がおかれてからは、役人の見廻り(巡回)が特に多くなったことから、この付近の様子が記録されるようになりました。この見廻りは役職によってお供の人数も異なりますが、多いときは100人を越えることもあったそうです。
この道は、もともとはアイヌの人たちの踏み分け道でしたが、1810(文化7)年に開削されました。吹雪の名所であったことから冬場は通行できず、また、毎年修理をしなければならないかったなど、まさに難所であったようです。
その後、1885(明治18)年にシベツ越え(他にも新斜里山道、越川山道、忠類越えともいう。現在の国道244号道)の道が開削されたため、標津から斜里を結ぶ道はシャリ越えからシベツ越えにとって替えられたため、この山道は廃止されることになりました。
ただし。全く使われなくなったわけではなく、根室内陸の開拓者達にとっては数少ない重要な道路のひとつとして、その後数十年間は使われていたようですが、開拓が進むことにより、新しい道路が造られるようになると、標津川沿いのシャリ越道はしだいに人々の記憶からも消えていくことになりました。
現在はわずかな踏み分け道の一部や、人工的な坂跡などがひっそりと残るのみとなっています。