Nakashibetsu Municipal folk Museum

江戸時代の中標津のようす。

近世

旧斜里山道略図享和元年(1801)、アイヌの人々の踏み分け道を開削し、北辺警備の強化と東西蝦夷地開発のための連絡路として、釧路と斜里をつなぐ「(旧)斜里山道」ができました。
文化七年(1810)には、やはりアイヌの人々が標津川やケネカ川沿いで使っていた踏み分け道を開削したものがその道に接続され、シベツとシャリを結ぶ道として明治18年まで使われました。

当時のシベツは、現在の標津神社付近に人家があり、そこから海岸沿いに南下した「ホニオイ」と呼ばれた場所から道が内陸へ向かいました。当時、馬に乗るのはほんの一部の人のみで、ほとんどが歩きでしたので、道中には休憩や宿泊のための施設が置かれていました。

現在の中標津市街のあたりは「タヲリマフ」と呼ばれ、小休処や標柱がありました。また、タヲリマフとホニオイの間の「トエヒラ」や「ツナナ」と呼ばれる場所や、計根別よりさらに上流部にも小休処が数ヶ所あったこと、そして、シベツを出てシャリへ向かう途中、第一日目に宿泊するのは、「チライワッタラ」(標津川とポン俣落川の合流地点付近)という場所でした。

安政元年(1854)に函館奉行がおかれてからは、役人の見廻りが特に多くなったことから、この付近の様子が記録されるようになりました。この見廻りは役職によってお供の人数も異なりますが、多いときは100人を越えることもあったそうです。

この道は、もともとはアイヌの人たちの踏み分け道でしたが、1810(文化7)年に開削されました。吹雪の名所であったことから冬場は通行できず、また、毎年修理をしなければならないかったなど、まさに難所であったようです。

その後、1885(明治18)年にシベツ越え(他にも新斜里山道、越川山道、忠類越えともいう。現在の国道244号道)の道が開削され、標津から斜里を結ぶ道はシャリ越えからシベツ越えにとって替えられたため、この山道は廃止されることになりました。

ただし、全く使われなくなったわけではなく、根室内陸の開拓者達にとっては数少ない重要な道路のひとつとして、その後数十年間は使われていたようですが、開拓が進むことにより、新しい道路が造られるようになると、標津川沿いのシャリ越道はしだいに人々の記憶からも消えていくことになりました。

現在はわずかな踏み分け道の一部や、人工的な坂跡などがひっそりと残るのみとなっています。


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