Nakashibetsu Municipal folk Museum

昔の中標津ってこうだったんです。

むかしの山菜のようす

ワラビ、ウドは原野のいたる所、道ばたといわず、畑の周囲に生い茂っていたし、各河川の沿岸には、特に水辺を好んで生える大蕗(アキタブキ)が繁茂していた。

長いものは2メートルにも及び、からかさのような大きな葉の下を、平気で歩くことができた。(・・・中略・・・)早春には河辺や野路にはアイヌネギ(ギョウジャニンニク)、フクベラ(ニリンソウ)、コジャク(シャク)などが萌え出る。

※大正6年
『養老牛の今昔』(西村武重著、昭和50年発行)より抜粋

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むかしのキノコのようす

森林内の風倒木には、天然のみごとなシイタケが何十個も鈴なりに生え、たまには一抱えもある薄紫色のマイタケに行き当たることがあった。このマイタケを発見した瞬間は、ほんとうに舞い踊りたいほど嬉しいものであった。

ムキタケ、ボリボリ(ナラタケ)にいたっては、足の踏みこむ隙間もないくらい密生していた。

キノコにあきている者は手も触れない。

春5月にはアカダモ(ハルニレ)の木に何十本もかたまって黄色のアカダモ茸(タモキノコ)が生え、晩秋にはヤチダモの切り株に甘味のユキノシタ(エノキタケ)が簇生する。

※大正6年
『養老牛の今昔』(西村武重著、昭和50年発行)より抜粋

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むかしの魚のようす

その1

原野内の小川は、時期になるとサケ・マスは取りほうだいにとれたし、ヤマベ(ヤマメ)、イワナ、イトウ、アカハラなどはどの川にも充満しているといっても過言ではなかった。

※大正初期
『養老牛の今昔』(西村武重著、昭和50年発行)より抜粋

その2

中標津町内の母川、標津川の本支流には、大きなヤマメやイワナが踊りくるっていた。季節になるとサケやマスが遡上してきて、川床はブルドーザーで掘りかえしたようになっていた。そこには、サケ、マスが産卵した「ホリ」が川筋一帯に続いていた。ヨドミ(深淵)には何千何百とも数知れぬものが、頭を上流にそろえて、豪勢な大群であった。

※大正5・6年
『北海の狩猟者』(西村武重著、山と渓谷社、昭和42年発行)より抜粋

その3

標津川、武佐川、イロンネベツ川、クテクンベツ川、マタオチ川をはじめ、水さえ流れるところには、サケやマスでいっぱいだったというのも、けっしてホラではない。夏の腐りやすい時期には、小川の岸は、ヒグマのすくいあげた食い残りの魚が腐敗し、悪臭がプンプンしていたものだ。

※大正5・6年
『北海の狩猟者』(西村武重著、山と渓谷社、昭和42年発行)より抜粋

その4

標津川には大きなイトウがたくさんいた。流木と思ったらそれがイトウだったとか、6尺(180cm)近いのを見たなどイトウにまつわる話は多かった。

※大正後期〜昭和初期
『月刊新根室』(総合企画(有)、昭和59年4月号の「生きた歴史の証人、むかし話に花を咲かせる会」)より抜粋

その5

大正年間には・・・中略・・・深淵にイトウの12尺(3.6m)ぐらいの大ものを見たというのである。・・・中略・・・標津川のこの大イトウをとろうと、腕自慢の人たちがヤスを打ちこんだが、普通のものでは刺さらない。たまに運よく突き刺さっても、ひとふり跳躍すればヤスをもぎとられて、人間は川へ引きずりこまれ、危うく生命を落としそうになったことがあった。・・・とか。そこでヤスに細引きを付けて突っこんだ者もあったが、とてもとれなかったそうだ。

※大正5・6年
『北海の狩猟者』(西村武重著、山と渓谷社、昭和42年発行)より抜粋

その6

(昭和12年頃)標津川とクマ川の合流にでかけた。・・・中略・・・この合流点に大深淵があり、大きな流木が幾千年前からか川床にかさなりあって埋まり沈んでいた。ともかく渦をまくものすごい大深淵である。
(そこで釣りをして)最後の一竿と、エサをつけかえて水面に振りこもうとなに気なく下流を振りむいた時、「ガバッ」と大きな水音がした。
ドキッ・・・として、私が瞳を凝らすと、大きな黒い頭のようなものが水面に現れた。ちょうど10数間(約20〜30m)下流であった。
だが、それはほんの一瞬のできごとで、あっというまに沈み込んでしまった。私は心なしかピカッと目玉が青く光ったような気がした。それは八升樽くらいの頭だった。
私は全身に水を浴びせられたようにゾクゾクッとした。なんとも形容のできない寒気とともに、一時に恐怖心がわいた。手早くきりあげ、釣り場を離れて岸へあがりながら水面を眺めた。
すると大淵は、大波紋を起こして、そこから矢のように真一文字にツーッ一線が走った。と、見るまに、つい20秒前まで私が立ったり、屈んだりしていた流木の上を「ガバッ」「ドシン」と風倒木をゆるがせて乗り越え、水中深く没し去った。
さっきと同じ大きな水音、茶褐色の大きな姿態。10尺から15尺(3〜4.5m)以上にも見えた。これも瞬間の出没であったが、胴まわりは一抱えもあったように思われた。
私がも少しまごまごしていたらどうなったか、身の毛もよだつ、戦慄すべきものであった。
私はヒグマにたびたび出っくわしてもビクともしない猟人だが、この時ばかりはなんともいえない得体のしれぬ怪物に、気味の悪い恐ろしさを味わった。その後、2、3回は私もこの大淵へ、愛銃ウィンチェスター・ライフルの15連を携えて行ってみたが、その怪物とはあれっきり遭遇することはなかった。
私は40年間標津川に親しみを持ち、狩猟に釣りにでかけたが、後にも先にも、あの時ばかりで、大物の全身、すなわち標津川の主には見参したことがない。大正時代に流送人夫からたびたび聞いた大イトウのことは、嘘ではなかったのであった。

※大正5・6年
『北海の狩猟者』(西村武重著、山と渓谷社、昭和42年発行)より抜粋

その7

初代根釧農業試験場長 松野伝氏の魚に関係する記事
 ※昭和初期の頃のこと(昭和30年頃の新聞か業界紙をコピーしたもの。詳細不明)

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むかしの中標津のようす

中標津にはタワラマップ川(現在本通を横切っている小川)のそばに、官設の駅逓所があり、近所には笹屋根の小さな移住者1軒と、合計たった2軒より人家がなかった。周囲一帯は湿原で、ヤチボウズ、ヤチハギ、ヤチハンノキ、アイヌワラ、痩せた短いカヤなどの野地、わずかに標津川よりにシラカバの幼齢期の疎林帯があるだけという、実に寒々として寂莫たる風情だった。

※1917(大正6)年12月の中標津市街地のようす
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 ※()書きは補足部分です。


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